重版記念! 江戸川乱歩の未完のミステリ「悪霊」を芦辺拓が書き継ぐ!【『乱歩殺人事件――「悪霊」ふたたび』試し読み】

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/8

江戸川乱歩のいわくつきの未完作「悪霊」を、芦辺拓さんが書き継ぎ完結させた超弩級ミステリ『乱歩殺人事件――「悪霊」ふたたび』。
本書の重版を記念して、試し読みを特別公開します!
気になる作品の冒頭をどうぞお楽しみください。
(ルビ(振り仮名)や一部表記は書籍と異なります)

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芦辺拓+江戸川乱歩『乱歩殺人事件――「悪霊」ふたたび』試し読み

I N T R O D U C T I O N

 これは日本の探偵小説の父・江戸川乱歩の幻の作品「悪霊」を、私芦辺拓が再構成と補筆を行ない、その内側と外側の世界に空想をくりひろげた小説です。
 デビュー作「二銭銅貨」で探偵小説という最先端の文学を日本の風土と言語空間に着地させるのに成功した乱歩は、「陰獣」では妖艶で官能的な愛憎劇に読者のいる外側の世界を巻きこみ、『孤島の鬼』では本格探偵小説と伝奇冒険小説の融合をなしとげ、『蜘蛛男』に始まるいわゆる通俗長編では、このジャンルを百万大衆のものとするのに成功しました。
 それらを踏まえ、満を持して一九三三年秋に連載がスタートした「悪霊」は、これまでの彼の作品と同様、これまでにない傑作となるはずでした。作者らしき人物が謎めいた手紙を手に入れる冒頭から濃密で陰鬱なムードに包まれ、いきなり凄惨な密室殺人と異様な道具立てで幕を切って落とすこの作品は、完結のあかつきには成功しか約束されていないはずでした。
 にもかかわらず、「悪霊」は連載三回、たった二通の手紙を紹介したところで一九三四年早々に中断し、休載また休載の果てに思いがけない結末を迎えます。犯人の名はもとより、トリックというトリック、謎という謎は解かれないまま放置され、それから九十年もの歳月が流れてしまいました。
『乱歩殺人事件──「悪霊」ふたたび』ではそれら全てを解き明かし、犯人を指名し解決をつけると同時に、そのころの乱歩自身にも光を当て、なぜ「悪霊」が中絶のやむなきに至ったかにも思いをめぐらせてみました。本書のいささか不穏なタイトルの由来も、そこで明らかになることでしょう。
 それでは、このページをめくって、失われた時代の、失われた都市の、失われた……いや、失われたはずの物語のただ中へ、どうぞお入りください!

プロローグ

「今井町、今井町──」
 青山六丁目始発、市電七系統のボギー車が、車掌の声とブレーキの音をないまぜにしながら停車した。車体中央の折り畳み扉からいくばくかの乗客を吐き出し、前後の乗車口からはスルスルと吞みこんだかと思うと、
「動きまぁす」
 という掛け声と、チンチンと二度鳴らされた信鈴を合図に、すぐにあわただしく走り去ってゆく。二本のトロリーポールから青白い火花を散らし、モーターのうなりを立てながら……。
 車道から一段高いだけの停留所にぽつんとたたずんで、日比谷から永代橋をめざす後ろ姿を見送り、ふと来た方向をふりかえれば、六本木の交差点につながるなだらかな上り勾配が見える。車の流れが途切れたうちにと道を南に渡れば、そこは東京市麻布区簞笥町。家並みの切れ目から一筋の坂道が始まる。
 流垂坂という名前そのままに、閑静な屋敷町の奥まで長々とのびゆく坂を上りかけ、すぐ左に折れると、ほどなく何とも風変わりな一画に出くわした。一帯の町名は旧幕時代に武具を司った簞笥奉行に由来するが、その古風さにはどうにも似つかわしくない眺めだった。
 そう……まるでいきなりヨーロッパに飛ばされ、そのどこやらの小都会にまぎれこんだかのよう。でなければ新宿の武蔵野館か丸の内邦楽座あたりで封切る洋画の銀幕スクリーンに吸いこまれたみたいに、どこもかも瀟洒でエキゾチックな西洋館ばかりなのだ。
 道はすぐに二股に分かれて三角地帯となるが、そこに建つのはチェコスロヴァキア公使館、以前は秘露ペルー公使館が居を構えていた。その向かいには芬蘭フインランド公使館──といった具合に、小ぢんまりとはしていても、れっきとした在外公館やその関連の施設ばかり。文字通り治外法権の外国そのものというわけなのだった。
 ちなみに隣町の市兵衛町にはスペイン公使館、飯倉町には中華民国大使館、やや離れて狸穴町にはソヴィエト大使館がそれぞれ威容と個性を競い合っている。
 そうした土地柄を反映してか看板も多くは横文字、しかも何語とも知れぬものばかり。そんな異国のジオラマを楽しみながら、ぶらぶらと歩を進めるうち、早くも目的地のそばまで来てしまった。
 ──これまでの苦労を考えると、何となくあっけない気がした。今さら急ぐこともなかったし、小休止してこのあとに備えるのも一手だった。
 かといって、こんなひっそり閑とした街なかに、時間をつぶすような場所はないなと半ばあきらめながら見回すと、建物と建物の間にはさまれるようにして間口を開いた一軒の本屋らしき店があった、それも古書店のようだ。
 近づいてみると果たしてその通りで、しかも珍しいことには店頭に積んであるのも、奥の本棚に汗牛充棟しているのも、洋書が大半を占めていた。横浜や神戸の古本屋では、外国船の図書室のお払いものや、船員船客が読み捨てた本や雑誌が大量に出回るというが、ここも土地柄、外国人がお客のかなりの部分を占めているのだろう。
 書皮ダストジヤケツトをはがれてしまった単行本は、パッと見にはどんな内容だかわからないが、Edgar WallaceとかGuy Boothby、さてはSamuel A. Duseといった著者名が見えるところからすると、極東への旅のつれづれを慰めた小説本の余生の姿と思われた。
 雑誌はまだしもはっきりしていて、けばけばしい表紙絵の中では探偵ともギャングともつかない壮漢タフ・ガイが拳銃を構えていたり、金髪に薄着の美女が悲鳴をあげていたり、何だかよくわからない別世界や怪物が描かれていたりする。いったいどんな話なのかと思うが、それらの上にでかでかと記された文字からすると、戦慄的で奇妙不可思議で、驚嘆すべき物語たちが、一〇セント硬貨ダイム一枚で手に入ることは確からしかった。
 わずかながら日本の雑誌も置かれていて、ただし博文館の「新青年」ばかりだった。それも最近のものばかりで、だから珍しくもなかったが、ほかの洋書や外国雑誌に比べるととっつきがよく、何よりなじみがあって手に取りやすかった。
 何もこんなところまで来て、しかもよりによって「新青年」でもないだろうと思いつつ、適当に手に取った一冊をパラパラと繰ってみると、最終ページの“編輯だより”に、こんな文字が見えた。

 最近筆を折つて、暫らく静養してゐた江戸川乱歩氏が、いよいよ明年を期して大探偵小説を本誌に寄せることとなる。毎度諸君にお約束して置きながら、実現の機に到らなかつたけれども今度こそは氏自身の覚悟のほども断乎として固い。恐らく驚天動地の作品が約束されるだらう

 いつのことだったろうと確かめると、昭和七年十一月号だ。もうけっこう前だが、と思いつつ別の号を手に取ると、同じく“編輯だより”に、

 ところで、これまたお待ちかねの江戸川乱歩氏の長篇だが、いよいよ四月号から連載できることになりさうである。氏は目下、他雑誌の爆弾勇士を悉く撃退して、僕等のために驚嘆すべきストーリイを製作中だ。

 ──と記されていた。冒頭に編集長水谷準をはじめとするスタッフが名を連ねた「賀正」の文字がある通り、これは明けて昭和八年の一月号だった。今や天下の流行作家である江戸川乱歩の新作を掲載できる喜びに満ち満ちている。
 何しろ「新青年」といえば、この江戸川乱歩を「二銭銅貨」で世に出し、名探偵明智小五郎初お目見えの「D坂の殺人事件」に「屋根裏の散歩者」、さらには「パノラマ島綺譚」やら「陰獣」といった問題作にも発表の舞台を提供してきた。
 なのに昭和四年に「押絵と旅する男」を書いたきり、創作の方ではすっかりご無沙汰という状態だったから、この大はしゃぎと前宣伝も当然といえば当然だ。明智探偵も近ごろはすっかり活動大写真的ヒーローとなり果て、乱歩といえば血みどろにして乱射乱撃な猟奇スリラー作家と化していたが、古巣の「新青年」に書くとあれば、これはもう本格的な探偵小説、それも官能と怪奇と耽美の中にアッと言わせる謎と真相を盛りこんだ力作になるに違いなかった。
 そんなわけで、読者の期待は高まるばかり。月初めの発売日には書店に駆けつけ、折りこみの目次を確かめずにはいられなかった。ところが、ここに記された四月号を見てみると、

 本号から連載の予定であつた江戸川乱歩氏の長篇は、遂に間に合はず。「又か!」と云はずに下さい。作者も僕等も一生懸命なのだ。次号を待たれよ。(J.M.)

 と編集長のイニシャル入りで弁明してあった。しかも次号もまた乱歩のらの字もなく、そのあとも、予告とその先延ばしがくり返されるばかりだった。

 読者諸君にとつては喜ばしい報告二つ。江戸川乱歩氏の長篇を今年の新年号から首を長くして待つてゐるが、いよいよ氏も重かつたお尻をあげた。来月号誌上で多分吉報の予告を掲げることが出来よう。これこそまさに期して待たれよ。

 来る十月号は増大号である。色紙頁の予告のやうに、創作欄は断然興奮の連続である。殊にわが乱歩の出陣こそは、日本全読者階級の固唾を飲んで待構へてゐるもの。あゝ、かうやつて書いている裡にも心臓がどきついて来たぞ。暑さなんか……しまつた、罰金!

 そんなこんなで、ようやく念願の新連載が始まったのは、昭和八年十一月号――最初の予告から、何と丸一年がたっていた。これだけ待たせに待たせただけあって、版元の力の入れ具合もふだんとは異なっていた。「キング」や「講談俱楽部」のような大衆小説誌に比べると、「新青年」の新聞広告は地味というかモダンでウィットに富んだものだが、このときばかりは様変わりしていて、

江戸川乱歩 新連載長篇第一回
悪 霊

眠れる獅子、突如沈黙を破る! 果然・俄然・断然・凄然!!
久方ぶりに見るこの描写の美しさ、凄艶さよ。
巨人乱歩は劈頭何を語らんとするか?
万人待望のうちに、しづしづと緞帳はあがつた!

 と吉田貫三郎のグロテスクな挿絵入りで派手にぶちあげた。当然その反響はすさまじく、“編輯だより”も安堵と喜びの声にあふれて、

 やつと約束の一つを果すことができた。曰く、江戸川乱歩氏の「悪霊」。予告毎に諸君をワクワクさせた揚句、フンガイを買つてゐた僕等も辛かつたが、これで闇の夜でも歩けるやうになつたやうだ。「悪霊」一たび出づるや、文字通りの大旋風捲き起り、黄塵万丈日本全国を蔽ひ、ために再版をしなくてはならないやうな騒ぎ。いや近頃の快事であつた。この大作は、恐らく氏としても全精力を傾倒しつくして生れたもの、これくらゐの現象は当り前だとも云へる。この作の大きなトリツクは多分どんな読者も気がつく事はできまい、と作者の気焰が窺はれるだけあつて、「陰獣」そこのけの驚きが大団円に待つてゐるものと見なくてはなるまい。原稿が来ると、編輯者同志が奪ひ合つて読むといふやうなのは、一月の間でもさう沢山はないものだが、これなどはその一つだ。まあひとつ、今月の第二回を読んで見て下さい。

 いつになく饒舌な口調で、読者とその喜びを分かち合った。だが、その翌々月には、早くも暗雲たちこめて、

 江戸川乱歩氏の「悪霊」は近頃の話題メイカーになつてゐる。凡ゆる意味で賞讃の声が編輯部へしきりにとび込む。残念乍ら今月は原稿〆切に間に合はず来月は二ヶ月分一纏めの予定!

 もう一度、読者の皆さんに御詫びしなければならない。江戸川乱歩氏の「悪霊」またも休載である。連載の探偵小説は、他の小説と違つて、絶対休んではならない定法なのだが、何しろ作者はこの一作を畢生の大作たらしめんとしてゐるので、筆が思ふやうに運ばぬらしい。今月は加へて御病気である。あと一月御猶予ねがひたい。来る四月号には充分の枚数を以て、フアンにまみえるであらう。

 と打って変わっての平身低頭がくり返された。だが、それきりその「悪霊」の続きが掲載されることはなかった。作者の苦悩や読者の期待と失望、編集者たちの怒りにもかかわらず、時だけが無駄に過ぎていた。
(おっと、いけない)
 ふと雑誌を閉じ、時計を見ると意外に時間が過ぎていた。そのまま急ぎ足で坂道の続きを上ってゆくと、やがてその先に小ぢんまりした木造二階建ての洋館が見えてきた。個人の住宅かとも思われたそこの正面には、しかしそうではない証拠に次のような看板がかかげられていた。
 ──〈張ホテル〉
 と。

悪霊

第一回 江戸川乱歩

発表者の附記

 二た月ばかり前の事であるが、N某という中年の失業者が、手紙と電話と来訪との、執念深い攻撃の結果、とうとう私の書斎に上がり込んで、二冊の部厚な記録を、私に売りつけてしまった。人嫌いな私が、未知の、しかもあまり風体のよくない、こういう訪問者に会う気になったのはよくよくのことである。彼の用件はむろん、その記録を金に換えることのほかにはなかった。彼はその犯罪記録が私の小説の材料として多額の金銭価値を持つものだと主張し、前もって分け前にあずかりたいというのであった。
 結局私は、そんなに苦痛でない程度の金額で、その記録をほとんど内容も調べず買い取った。小説の材料に使えるなどとはむろん思わなかったが、ただこの気兼ねな訪問者から、少しでも早くのがれたかったからである。
 それから数日後の或る夜、私は寝床の中で、不眠症をまぎらすために、なにげなくその記録を読みはじめたが、読むにしたがって、非常な掘り出しものをしたことがわかってきた。私はその晩、とうとう徹夜をした上、翌日の昼ごろまでかかって、大部の記録をすっかり読み終った。半分も読まないうちに、これは是非発表しなければならないと心をきめたほどであった。そこで、当然私は、先日のN某君にもう一度改めて会いたいと思った。会って、この不思議な犯罪事件について、同君の口から何事かを聞き出したいと思った。記録を所持していた同君は、この事件にまったく無縁の者ではないと思ったからだ。しかし、残念な事には、記録を買い取った時の事情があんなふうであったために、私は、某君の身の上について何事も知らなかった。彼の面会強要の手紙は三通残っていた。けれど所書きは皆違っていて、二つは浅草の旅人宿、一つは浅草郵便局留置きで返事をくれとあって所書きがない。その旅人宿二軒へは、人をやったり電話をかけたりして問い合わせたけれど、N某君の現在の居所はまったく不明であった。
 記録というのは、まっ赤な革表紙で綴じ合わせた、二冊の部厚な手紙の束であった。全体が同じ筆蹟、同じ署名で、名宛人もはじめから終りまで例外なく同一人物であった。つまり、このおびただしい手紙を受け取った人物が、それを丹念に保存して、日付の順序に従って綴じ合わせておいたものに違いない。もしかしたら、あのN某こそ、この手紙の受取人で、それが何かの事情で偽名をしていたのではなかったか。こんな重要な記録が、故なく他人の手に渡ろうとは考えられないからだ。
 手紙の内容は、先にも言った通り、或る一連の残酷な、血なまぐさい、異様に不可解な犯罪事件の、首尾一貫した記録であって、そこにしるされた有名な心理学者たちの名前は、明きらかに実在のものであって、われわれはそれらの名前によって、今から数年以前、この学者連の身辺に起こった奇怪な殺人事件の新聞記事を、容易に思い出すことができるであろう。おぼろげな記憶によって、その記事をこれに比べてみても、私の手に入れた書翰集がまったく架空の物語でないことはわかるのだが、しかし、それにもかかわらず、ここにしるされた事件全体の感じが(簡単な新聞記事では想像もできなかったその秘密の詳細が)なんとなく異様であって、信じがたいものに思われるのはなぜであるか。現実は往々にしていかなる空想よりも奇怪なるがためであろうか。それとも又、この書翰集は無名の小説家が現実の事件にもとづいて、彼の空想をほしいままにした、廻りくどい欺瞞なのであろうか。歴史家でない私は、そのいずれであるかを確かめる義務を感じるよりも先に、これを一篇の探偵小説として、丗に発表したい誘惑に打ち勝ちかねたのである。
 一応は、この書翰集全体を、私の手で普通の物語体に書き改めることを考えてみたけれど、それは、事件の真実性を薄めるばかりでなく、かえって物語の興味をそぐおそれがあった。それほど、この書翰集は巧みに書かれていたと言えるのだ。そこで私は、私の買い取った三冊の記録を、ほとんど加筆しないで、そのまま発表する決心をした。書翰集のところどころに、手紙の受取人の筆蹟とおぼしく、赤インキで簡単な感想或いは説明が書き入れてあるが、これも事件を理解する上に無用ではないと思うので、ほとんど全部(註)として印刷することにした。
 事件は数年以前のものであるし、もしこの記録が事の真相であったとしても、迷惑を感じる関係者は多く故人となっているので、発表をはばかるところはほとんどないのであるが、念のために書翰中の人名、地名はすべて私の随意に書き改めた。しかし、この事件の新聞記事を記憶する読者にとって、それらを真実の人名、地名に置き替えることは、さして困難ではないと信じる。
 いま私はこの著述がどうかしてN某君の眼に触れ、同君の来訪を受けることを切に望んでいる。私は同君が譲ってくれたこの興味ある記録を、そのまま私の名で活字にすることを敢てしたからである。この一篇の物語について、私はまったく労力を費していない、したがってこの著述から生じる作者の収入は、全部、N某君に贈呈すべきだと思っている。この附記をしるした一半の理由は、材料入手の顚末を明きらかにして、所在不明のN某君に、私に他意なき次第を告げ、謝意を表したいためであった。

第一信

 長い間全く手紙を書かなかったことを許して下さい。それには理由があったのだ。数年来まるで恋人の様に三日にあげず手紙を書いていた君のことを、この一月程の間と云うもの、僕は殆ど忘れていた。僕に新らしい話相手が出来たからだなどと思ってはいけない。そんな風の並々の理由ではないのだ。君は僕の「色眼鏡の魔法」というものを多分記憶しているだろう。僕が手製で拵えたマラカイト緑とメチール菫の二枚の色ガラスを重ねた魔法眼鏡の不気味な効果を。あの二重眼鏡で世界を窺くと、山も森も林も草も、凡ての緑色のものが、血の様に真赤に見えるね。いつか箱根の山の中で、君にそいつを覗かせたら、君は「怖い」と云って大切なロイド眼鏡を地べたへ抛り出してしまったことがある。あれだよ。僕がこの一月ばかりの間に見たり聞いたりしたことは、まったくあの魔法眼鏡の世界なのだよ。眼界は濃霧の様にドス黒くて奥底が見えないのだ。しかしその暗い世界をじっと見つめていると、眼が慣れるにつれて、滲み出す様に真赤な物の姿が、真赤な森林や、血の様な叢が、目を圧して迫って来るのだ。
 君の少し機嫌を悪くした手紙は今朝受取った。恋人でなくても、相手の冷淡は嫉ましいものだ。僕は心にもない音信の途絶えを済まない事に思った。と云って、何もそれだからこの手紙を書き出したのではない。もっと積極的な意味があってなのだ。君の手紙の中に黒川先生の近況を尋ねる言葉があったね。君は大阪にいて何も知らないけれど、君のあの御見舞の言葉は、偶然とは思われぬ程、恐ろしく適切であったのだ。僕は先生の身辺に継起した出来事について君の御尋ねに答えるべきなのであろうが、それは、いくら僕の手紙が饒舌だからと云って、一度や二度の通信では迚も書き切れるものでない。それ程その出来事というのが重大で複雑を極めているのだ。しかも事件はまだ終ったのではない。僕の予感ではこの殺人劇のクライマックスは、つまり犯人の最後の切札は、どっかしら見えない所に、楽しそうに、大切にしまってあるのだ。
 実を云うと、僕自身もこの血腥い事件の渦中の一人に違いない。なぜと云って、黒川博士の身辺の出来事というのは、君も知っている例の心霊学会のグループの中に起ったことであって、僕もその会員の末席をけがしているからだ。僕がどういう気持で、この事件に対しているか、事件そのものは知らなくても、君には大方想像出来るであろう。黒川先生や気の毒な被害者の人達には、誠に済まぬことだけれど、気の毒がったり、途方にくれたり、胸騒ぎしたりする前に、先ず探偵的興味がムクムクと頭をもたげて来るのを、僕はどうすることも出来なかった。事件が実に不愉快で、不気味で、惨虐で、八幡の藪知らずみたいに不可解なものである丈け、被害者にとっては何とも云えぬ程恐ろしい出来事であるのに反比例して、探偵的興味からは実に申分のない題材なのだ。僕はつい強いても事件の渦中に踏み込まないではいられなかった。
 君が僕に劣らぬ探偵好きであることは分っている。僕は君が東京にいてまだ学生だった時分、二人で机上の探偵ごっこをして楽しんだのを忘れることが出来ない。で、僕はこういう事を思い立った。まだ謎は殆ど解けていないまま、この事件の経過を詳しく君に報告して、それを後日の為の記録ともし、又、遠く隔てて眺めている君の直覚なり推理なりをも聞かせて貰うという目論見なのだ。つまり、僕達は今度は、現実の、しかも僕に取っては恩師に当る黒川博士の身辺をめぐる犯罪事件を材料にして、例の探偵ごっこをやろうという訳なのだ。これは一寸考えると不謹慎な企てと見えるかも知れない。だが、そうして、若し少しでも事件の真相に近づくことが出来たならば、恩師に対しても、その周囲の人達に対しても、利益にこそなれ決して迷惑な事柄ではないと思う。
 今から約一ヶ月前、九月二十三日の夕方、姉崎曽恵子未亡人惨殺事件が発見された。そして、何の因縁であるか、その第一の発見者はかく云う僕であった。姉崎曽恵子さんというのは僕達の心霊学会の風変りな会員の一人で(風変りなのは決してこの夫人ばかりではないことが、やがて君に分るだろう)一年程前夫に死に別れた、まだ三十を少し越したばかりの美しい未亡人だ。故姉崎氏は実業界で相当の仕事をしていた人だが、その人と黒川博士とが中学時代の同窓であった関係から、夫人も博士邸を訪問する様になり、いつの間にか心霊学に興味を持って、心霊現象の実験の集りには欠かさず出席していた。その美しい我々の仲間が突然奇怪な変死をとげたのだ。
 その夕方、午後五時頃であったが、僕は勤め先のA新聞社からの帰りがけに、兼ねて黒川先生から依頼されていた心霊学会例会の打合せの用件で、牛込区河田町の姉崎夫人邸に立寄った。多分君も知っている通り、あの辺は、道の両側に毀れかかった高い石垣が聳え、その上に森の様な樹木が空を覆っていたり、飛んでもない所に草の生えた空地があったり、狭い道に苔の生えた板塀が続いていて、その根元には蓋のない泥溝が横わっていたりする、市内の住宅街では最も陰気な場所の一つだが、姉崎未亡人の邸は、その板塀の並んだ中にあって、塀越しに古風な土蔵の屋根が見えているのが目印だ。
 姉崎家の門よりは電車道よりに、つまり姉崎家の少し手前の筋向うに当る所に、今云った草の生えた空地があって、その隅に下水用の大きなコンクリートの管が幾つもころがっているのだが、多分その管の中を住いにしているのだろう、一人の年とった男の片輪乞食が、管の前に躄車を据えて、折れた様に座っていた。僕はそいつを注意しない訳には行かなかった。それ程汚くて気味の悪い乞食だったからだ。そいつは簡単に云えば毛髪と右の目と上下の歯と左の手と両足とを持たない極端な不具者であった。身体の半分がなくなってしまっているといってもよかった。その上痩せさらぼうて、恐らく目方も普通の人間の半分しかないのだろうと思われた程だ。僕は道端に立止まって二三分も乞食を眺め続けたが、その間彼は僕を黙殺して、片方しかない手で折れ曲った背中をボリボリ搔いていた。
 僕がこの躄乞食をそんなに長く見つめていたのは、人間の普通でない姿態に惹きつけられる例の僕の子供らしい好奇心に過ぎなかったが、併しそうしてこの乞食を心にとめて置いたことが、あとになってなかなか役に立った。いやそればかりではなく、僕とそいつとは、別にはっきりした理由がある訳ではないけれど、何だか目に見えない糸で繫ぎ合されている様な気がして仕方がないのだ。殊に近頃になってこの二三日などは毎晩の様に、あのお化けの夢にうなされている。昼間でもあいつの顔を思出すとゾーッと寒気がして何とも云えぬ厭な気持に襲われるのだ。姉崎家のことを書く前に、僕はなんだかあの片輪者について、もう少し詳しく君に知らせて置き度くなった。そいつの不具の度合は、身体のどの部分よりも顔面に最も著しかった。頭部の肉は顱頂骨が透いて見える程ひからびていて、ビカビカ光る引釣があって、その上全面に一本の毛髪も残っていなかった。木乃伊には毛髪の着いているのもあるが、この乞食の頭は、木乃伊とそっくりな上に髪の毛さえも見当らぬのだ。広く見える額には眉毛がなくて、突然目の窪が薄黒い洞穴になっていた。尤もそれは右の眼の話で、左の眼球丈けは残っていたけれど、細く開いた瞼の中は、黒くはなくて薄白く見えた。僕は左の目も盲目なのかと考えたが、あとになってそれは充分使用に耐えることが分った。目から下の部分は全く不思議なものであった。頰も鼻も口も顎も、どれがどれだかまるで区別がなくて、無数の深い横皺が刻まれているに過ぎなかった。鼻は低くて短かくて幾段にも横皺で畳まれていて、普通の人間の鼻の三分の一の長さもない様に見えたし、鼻の下には幾本かの襞になった横皺があるばかりで、すぐに羽をむしった鶏の様な喉になっていた。無論その横皺の一つが口なのだけれど、どれが口に当るのか見分けがつかない程であった。つまりこの乞食の顔は、我々とはまるで逆であって、目から下の全体の面積が、額の三分の一にも足りないのだ。これは肉が痩せて皮膚がたるんだのと、上下の歯が全くない為に、顔の下半面が、提灯を押しつぶした様に縮んでしまったものに違いなかった。君が若しアルコール漬けになった月足らずの胎児を見た経験があるなら、それを今思い出してくれればいいのだ。髪の毛の全く生えていない、白っぽくて皺くちゃのあの胎児の顔をそのまま大きくすれば、丁度この乞食の顔になる。皮膚の色は、君は恐らく渋紙色を想像するであろうが、案外そうではなくて、若し皺を引き伸ばしたら、僕なんかの顔色よりも白くて美しいのではないかと思われる程であった。それからこいつの身体だが、それは顔程ではなかったけれど、やっぱり木乃伊を思出す痩せ方であった。着ていたのは、盲目縞の木綿の単衣のぼろぼろに破れたもので、殊に左の袖は跡方もなくちぎれてしまって、ちぎれた袖の間から、黒く汚れたメリヤスのシャツに包まれた腕のつけ根が、肩から生えた瘤みたいに窺いていた。その瘤の先が風呂敷の結び目の様にキュッとしぼんでいるのは、一見外科手術の痕で、この乞食が癩病患者ではないことを語るものだ。胴体は非常な老人の様に全く二つに折れて、ちょっと見ると座っているのだか寝ているのだか分らない程であったが、その胴体に覆い隠された隙間から、膝から上丈けの二本の細い腿が窺いて見えて、それが泥まみれの躄車の中にきっちりと嵌まり込んでいた。年齢はどう見ても六十才以上の老人であった。
 例の癖で、僕は饒舌になりすぎた様だ。道草はよして姉崎家を訪ねることにしよう。そしてなるべく手取早く犯罪事件に入ることにしよう。で、夫人の家を訪ねると、顔見知りの女中が、広い家の中にたった一人でいた。何かしらただならぬ様子が見えたので、僕はその訳を尋ねて見たが、女中の答えた所は次の通りであった。姉崎未亡人は、夫の病死以来召使の人数も減らして、広い邸に中学二年生の一人息子と書生と女中の四人切りで住んでいた。丁度その日は子供の中学生は二日続きの休日を利用して学友と旅行に出ていたし、書生は田舎に不幸があって帰郷していたし、その上女中は夫人の云いつけで、昼すぎから午後四時半頃まで遠方の化粧品店と呉服屋とへ使に出ていたので、その留守の間夫人は全く一人ぼっちであった。いつもはそういう場合には市ヶ谷加賀町にある夫人の実家から人を寄こして貰う様にしていたのに、今日はそれにも及ばないということだったので、女中はそのまま使いに出て、つい半時間程前に帰宅して見ると、家の中は空っぽで、表の戸締りもなく、家中を隈なく探したけれど夫人の姿はどこにも見えなかった。おかしいのは、夫人の履物が一足もなくなっていないことだ。若し夫人がはだしで飛び出す様なことが起ったのだとすれば、それ丈けでもただ事ではない。さしずめ加賀町さんへこの事を知らせなければならぬが、それには留守番がないしと処置に困じていた所へ、丁度僕が来合せたというのであった。
 会話を省略したので、少し不自然に見えるかも知れないけれど、その問答の間に、僕は邸内に女中がまだ探していない部分があることを気附いた。それは先にちょっと書いた往来の塀の外から屋根が見えているというこの家の土蔵なのだ。土蔵が女中の盲点に入っていたのは併し無理はなかった。少くとも女中の知っている限りでは、土蔵の扉は時候の変り目の外は殆ど開かれたことがなく、戸前にはいつも開かずの部屋の様に重々しい錠前が掛っていたのだから。僕は念の為にと女中を説いて、二人で土蔵の前へ行って見たが、その扉には、女中の言葉の通り昔風の大きな鉄の錠前が、まるで造りつけの装飾物でもある様に、ひっそりと掛っているばかりであった。だが僕は錠前の鉄板の表面の埃が、一部分乱れているのを見逃がさなかった。それは極く最近、誰かが扉を開けて又閉めたことを示すものではないだろうか。僕はふと夫人が第三者の為に土蔵の中へとじこめられているという想像に脅されて、錠前の鍵を持って来る様に頼んだが、女中はそのありかを知らなかった。それでも、僕はどうも断念出来ないものだから、窓から窺いて見ることを考えて、庭に降りて見廻すと、幸、蔵の二階の窓が一つ開いたままになっているのを見つけた。僕は梯子を掛けてその窓へ昇って行った。窓の鉄棒につかまって、もう殆ど暗くなっているその土蔵の二階を、僕はじっと窺き込んでいた。猫の様に僕の瞳孔が開いて暗がりに慣れるのに数十秒かかったが、併しやがて、ぼんやりとそこに在る物が浮上って来た。壁に接して塗簞笥だとか長持だとか大小様々の道具を容れた木箱だとかが、ゴチャゴチャと積み並べてあるらしく、漆や金具があちこちに薄ぼんやりと光って見えた。それらの品物は皆部屋の隅へ隅へと積み上げてあるので、板敷の中央はガランとした空地になっているのだが、そこに大きなほの白い物体が、曲りくねって横わっていた。僕の目はいち早くその物体を認めたのだけれど、何だか正体を見極めることを遅らそうとするものの様であった。無論怖がっていたのに違いない。併し、いくら外らそう外らそうとしても、結局僕の視線はそこへ戻って行く外はなかった。見ていると、薄闇の中から、その曲線に富んだ大きな白い物体丈けがクッキリと浮上って、僕の目に飛びついて来る様に感じられた。僕は視力以上のもので、それを白昼の如く見極めることが出来た。
 姉崎未亡人は、全裸体で、水に溺れた人が死にもの狂いに藻搔いている格好で、そこに息絶えていた。僕は血の美しさというものを、あの時に初めて経験した。脂づいた白くて滑かな皮膚を、大胆極まる染模様のように、或は緋の絹糸の乱れる様に、太く細く伝い流れる血潮の縞は、白と赤との悪夢の中の放胆な曲線の交錯は、ゾッと総毛の立つ程美しいものだ。僕は夫人とさ程親しい訳ではなかったから、この惨死体を見て悲しむよりは怖れ、怖れるよりは寧しろ夢の様な美しさに打たれたことを告白しなければならない。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介

乱歩殺人事件――「悪霊」ふたたび
著者:芦辺 拓・江戸川乱歩
発売日:2024年01月31日

乱歩の未完の傑作が完結! 犯人・密室・謎の記号の正体とその向こう側
江戸川乱歩のいわくつきの未完作「悪霊」 
デビュー百年を越え、いま明かされる、犯人・蔵の密室・謎の記号の正体。
そして、なぜ本作が、未完となったのか――

乱歩の中絶作を、芦辺拓が書き継ぎ完結させる! そのうえ、物語は更なる仕掛けへ……。

 1923年(大正12年)に「二銭銅貨」でデビューし、探偵小説という最先端の文学を日本の風土と言語空間に着地させた江戸川乱歩。満を持して1933年(昭和8年)に鳴り物入りで連載スタートした「悪霊」は、これまでの彼の作品と同様、傑作となるはずだった。
 謎めいた犯罪記録の手紙を著者らしき人物が手に入れ、そこで語られるのは、美しき未亡人が不可思議な血痕をまとった凄惨な遺体となって蔵の2階で発見された密室殺人、現場で見つかった不可解な記号、怪しげな人物ばかりの降霊会の集い、そして新たに「又一人美しい人が死ぬ」という予告……。
 期待満載で幕を開けたこの作品はしかし、連載3回ののち2度の休載を挟み、乱歩の「作者としての無力を告白」したお手上げ宣言で途絶した。

 本書は、『大鞠家殺人事件』で日本推理作家協会賞と本格ミステリ大賞を受賞した芦辺拓が、乱歩がぶちあげた謎を全て解き明かすと同時に、なぜ「悪霊」が未完になったかをも構築する超弩級ミステリである。

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322310000776/
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