「下級生を不登校にしてまで頑張ってるなんて、すごいね」一丸となって部活を頑張ることが礼賛されにくくなった現代。時代の価値観の最前線は児童書!?《インタビュー》

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/28

ラベンダーとソプラノ
ラベンダーとソプラノ』(額賀澪/岩崎書店)

 箱根駅伝を題材に描いた「タスキメシ」シリーズ(小学館)をはじめ、青春小説の書き手として人気の額賀澪さん。昨年刊行された『ラベンダーとソプラノ』(岩崎書店)は、初の児童小説だ。中学の合唱コンクールを題材に描いたデビュー作『ヒトリコ』(小学館)にも通じる、小学校の合唱クラブを題材に描いた理由、児童文学だからこそ書けたこと、など執筆の裏側をうかがった。

(取材・文=立花もも)

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――額賀さんはこれまでも、部活を題材にさまざまな小説を書いていますよね。

額賀澪さん(以下、額賀) 小学校に限らず、中高の学校生活を通じても、部活動というのは生活のなかで大きなウェイトを占めるもの。それは昔も今も変わらないので、小説の題材にもなりやすいのでしょうが、扱われ方はだんだん変わってきているように感じます。たとえば私がデビューした10年くらい前はまだ、主人公が何かの部活に入ってみんなと一緒に成長していく、みたいなストーリーが多かったんですよ。でも今は、一丸となって頑張ることが、手放しで礼賛される雰囲気ではなくなってきた。厳しい指導も、部活一色に生活が染まってしまうことも、疑問視する人も多いですよね。だから私も、これまであまり書いたことのなかった、“みんなで頑張る”ことに違和感をもつ子たちにスポットをあててみようと思ったんです。

――なぜ合唱クラブだったのでしょう?

額賀 岩崎書店の編集者の方から提案された、というのもありますが、『ヒトリコ』では合唱をあまりポジティブなものとして描けなかったんですよね。いじめが題材だっただけに、物語の展開も壮絶でしたから。なので、今度は合唱を肯定する話を書きたい、というのはずっと思っていたことでした。

――主人公の真子が所属するクラブは、昨年の悲願を果たすのだと、コンクールの金賞をめざして頑張っています。6年生で、最後のチャンスだから、そして責任があるからと、仲間に厳しくあたる同級生に疑問を抱きながらも、めざす気持ちは同じだから、クラブ内の悪い雰囲気を変えられない。

額賀 “みんな”から外れた子として、美しいボーイソプラノの歌声をもつのにクラブに参加しない朔(はじめ)という少年を描くことを決めたのですが、だからといって“みんな”の側に立つ人たちを、否定したくもなかった。だから主人公の真子には、組織の理屈も理解している立場であってほしいと思いました。みんなで頑張って金賞をめざしたい、だけど今のままじゃいけないのはわかっている、どうしたらいいんだろう……と悩んでいる彼女が、朔と出会うことで何かを変えていく話にしたいな、と。

ラベンダーとソプラノ p.80~81

――真子の迷いを深めた原因は、下級生が厳しい練習に耐えきれず、不登校になってしまったこと。「下級生を不登校にしてまで頑張ってるなんて、すごいね」という朔の言葉は、帯にも書かれていて、かなりインパクトがありました。

額賀 きついですよね(笑)。でも現実にも、たとえば野球部の子たちが先生にガンガン詰められながら、朝から晩まで土日も潰して練習していることに、否定的なまなざしが向けられることってあるじゃないですか。昔だったら「水も飲まずに頑張っているからえらい」と称賛されていたのに、今は「ブラックだ」と言われてしまう。

――もちろん、耐えきれずに脱落した子にとっては、苦しみ以外の何物でもないし、強制するのはもってのほかだけど……。

額賀 そうまでして全国大会をめざしたいと思っている部員たちにとっては、かわいそうとか言われるのは心外ですよね。真子は、もともと正義の塊みたいな性格だし、問題が起きなければ素直に「みんなで頑張って金賞をとろう」と熱血できるタイプ。そんな彼女みたいな子は、価値観の変わりつつある今の世の中で、一番立つ瀬がないんじゃないかと思います。全力で頑張ることが、間違っているんじゃないかと、ふと揺らいでしまうこともきっと、あるでしょう。だから真子には、朔との出会いを通じて迷いながら、間違っていたことは正しながらも、最後まで「コンクールで金賞をめざしたい」と言い続けてほしい。そう思いながら、書いていました。

――勝ち負けに興味はないけど、歌うことが好きな朔が、商店街の人たちと結成している「半地下合唱団」も素敵でしたね。中学生から大人まで、さまざまな年代の男女が集まっているその場所で、真子は価値観が一つではないことを知っていく。

額賀 小学生にとって、家と学校が世界のすべて。それ以外はせいぜい塾や習い事に行く程度で、自分と異質の存在に出会う機会ってなかなかないんですよね。だから、学校の人間関係で失敗してしまうと、家にこもるしかなくなってしまうし、親に心配させたくない子はそれすらできず、逃げ場を失ってしまう。それ以外のサードプレイスをもつことがいかに大切かということを、編集者と話していました。私自身、おぼえがあるんですよね。教室で仲良くしていた子ともめたり、クラスで一番声の大きな子からにらまれたりした瞬間、「あ、今年一年、終わったかも」って血の気が引くような感覚。

――ありますね……。

額賀 だから、サードプレイスとして半地下合唱団を描こうと思ったとき、学校とは全然違う場所にしたいなと思いました。年代や価値観がバラバラなのはもちろん、みんなが集合時間ぴったりに集まるわけじゃないし、まじめに練習するわけでもない。なんなら、うまくなりたいと思っているわけでもない。学校から提示され続ける「一つのことを頑張り続けるのは素晴らしいこと。あなたもどんどんレベルアップしていくでしょう?」という空気とは真逆の雰囲気を醸し出したかった。だから練習場所も、朔の母親が営むバーの地下室。子どもがふだん絶対に足を踏み入れない場所にしました。

――半地下、というのもいいですよね。地下に潜り切っているわけじゃない。

額賀 ぴかぴかと陽のあたる場所ではないんだけれど、天窓から光は差し込んでいるし、たしかに地上と繋がっている。望めば、飛び込んでいくこともできる。そんなイメージで、名づけています。

――真子が出会ったのが朔だけだったら、もっと深刻に悩んで、自分を責めすぎてしまうこともあったんじゃないかと思うんです。でも、そうはならず、前向きな解決策を探れたのは、商店街の大人たちの朗らかに生きる強さが描かれていたからじゃないか、と。

額賀 私の地元は子どもの数が少なくて、小学校のときは同級生が20人くらいしかいなかったんです。母数が少なければそれだけ、気の合う子を見つけるのも難しくて、学校に行くのもさして楽しくはなかった。ああ、私はコミュニケーション能力がないんだろうな、とぼんやり思っていたし、同級生と仲良くできない自分ってちょっとやばいんじゃないか、という不安もありました。大学生にもなれば、学年の壁ってあまりなくなりますし、社会に出れば、同級生かどうかなんてたいていの人は気にせず交流しますよね。

――むしろ、同い年で仲良くしている人のほうが少ないくらいかもしれません。

額賀 それを、あの頃の私に、誰か教えてほしかったなあ、と思うんです。同級生と仲良くできなかったとしても、あなたに問題があるわけじゃない。ただ、たまたまそこに、仲良くできる人がいないだけなんだ、って。だから半地下合唱団の大人たちには、真子がとらわれすぎていることを「そんなことは別にどうでもいいんじゃない?」と当たり前のように気づかせてくれる存在であってほしかったんです。

ラベンダーとソプラノ p.160~161

――ちなみに、朔をボーイソプラノが上手な少年として描いたのはなぜだったんでしょう。

額賀 少年合唱団の子たちって、声変わりをした瞬間、その場所で歌うことができなくなってしまいます。身体が成長するのは喜ばしいことであるはずなのに、それによって大切な何かが失われてしまう。美しさと同時に存在するその残酷さを、いつか書いてみたいと思っていました。ボーイソプラノに限らず、フィギュアスケートの女性選手も、成長するにつれて高く飛べなくなってしまうことが多いですよね。失われていく何かを受け止め、折り合いをつけていく過程が、大人になるということなんじゃないか、と思うんです。でも、たとえ大事な何かが失われたとしても、否応なしに身体ごと変わってしまったとしても、そのうえで手にできる何かがあるはずだ、ということも描いてみたいと思いました。

――失われていくもののやるせなさや、美しさが裏に残酷さを孕んでいるということは、これまで額賀さんが描き続けてきたテーマのような気がします。

額賀 世の中には、スポーツ雑誌の表紙を飾れる人と、取材されることすらない人がいて、私が書きたいと思うのは後者の立場にいる人なんです。『タスキメシ』は駅伝の話でしたけど、あの世界における駅伝ファンの人たちは、誰も主人公の名前をおぼえていないんですよね。そんな、華々しさがないどころか、挫折して大事なものを諦め、「でもこれもいい経験だった」と折り合いをつけるしかない人たちの物語を書きたいんです。世の中の大多数はそちら側の人間ですし、世間的には美しくないものの美しい部分を、小説だからこそ表現できるんじゃないかと思うから。

――さまざまなテーマが織り込まれた作品ですが、初の児童小説に挑戦した手ごたえはいかがですか?

額賀 楽しかったですね。一般文芸で青春小説を書くときによく言われるのが「大人も読めるものにしてください」ということ。気持ちはわかるんですけど、そうなるとどうしても、10代にぴったり寄り添った物語ではなくなってしまう。でも『ラベンダーとソプラノ』は、大人たちも出てくるけれど、基本的にはちゃんと子どもたちに軸を据えた物語にすることができました。そうしたら、「子どもと一緒に読んだけど、なるほどと思うことがたくさんあって、大人にも薦めたくなった」という親御さんからの声をいただくことが多くて。ということは、大人にも読めるように、なんてしいて意識をしなくても、10代の子たちにしっかり寄り添うつもりで書けば、結果的に大人が読んでも響くものになるんだな、というのは嬉しい発見でした。

――誰かを断罪すれば問題が解決するわけじゃない、ということが今作では丁寧に描かれているので、年齢性別に限らず、ハッとする人は多いと思います。

額賀 これまで私は、価値観の最前線にあるのは純文学だと思っていたんですけど、もしかしたら児童書なんじゃないかと考えるようになりました。今の児童書を読んでいると、私が子どもの頃には絶対に書かれていなかったことが書いてあるんですよね。だからといって、子どもは大人から道徳を押し付けられることに敏感だから、物語としてちゃんとおもしろくないと、読んではくれない。そこにやりがいも感じるので、これからも児童書には挑戦していきたいなと思っています。

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