「日記も書き溜めたら『読ませたい』と思う瞬間がくるかもしれない」―飲み仲間で執筆仲間の古賀史健&燃え殻の対談インタビュー

暮らし

公開日:2023/8/6

古賀史健さん、燃え殻さん

 世界で累計1000万部という大ヒットを記録したビジネス書『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)の著者であり、『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(星海社)『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』(ダイヤモンド社)など文章の書き方をテーマとした本も多数世に送り出してきた古賀史健さん。

 そんな古賀さんがこの夏発表した新刊『さみしい夜にはペンを持て』(ポプラ社)は、初めて中学生に向けて書き下ろした意欲作です。

 物語の舞台は海の中。自分のことが嫌いで学校にもなじめないタコのタコジローが、不思議なヤドカリのおじさんと出会い「書くことを通じて自分と対話する方法」を教わりながら、自分を受け入れ肯定していくストーリーが描かれます。

 刊行を記念して、『ボクたちはみんな大人になれなかった』(新潮文庫)でブレイクし、現在は週刊新潮ほかさまざまな媒体で執筆活動を続ける燃え殻さんとの特別対談が実現しました。飲み友達であり、執筆を生業とする同士でもある二人が「書き続けて見えたもの」について語ります。

取材・文=鼈宮谷千尋 写真=金澤正平

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――お二人は同い年で、頻繁に飲みに行く仲と伺いました。

古賀史健(以下、古賀):2、3カ月に1回くらいは行きますね。この前会ったのは3週間前……ですかね。

燃え殻:ぼくが書くことに困ったとき、古賀さんに「すいません、最近お忙しいですか?」って連絡するんです。古賀さんはやさしいので、いつも「じゃあ時間作るよ」って(笑)。

古賀:そんなに偉そうな言い方しないですよ(笑)。

――燃え殻さんは、いつも「書くこと」について古賀さんに相談するんですか?

燃え殻:「あれはムカつくな」みたいな話もするんですけど。書くことについても……そうですね、古賀さんは「人はどうやって文章を書くのか」「なぜ書くのか」を常々考えている気がして、毎回会うたびにいろいろなことを教えてもらっています。

――まさに「さみしい夜にはペンを持て」の主人公タコジローと、彼に文章の書き方を教えるヤドカリのおじさんのような。

燃え殻:同い年ですが先輩みたいな感じです。

古賀:いやいや、そんな関係じゃないですよ。ぼくのほうこそ燃え殻さんのことを本当に尊敬しているので。

古賀史健さん

深夜ラジオにハガキを投稿していた頃の気持ちのまま、今も書いている

――『さみしい夜にはペンを持て』は、自分のことが嫌いな主人公タコジローがヤドカリおじさんと出会い、日記を書くことを通じて「自分と対話し、自分を好きになる」方法を見つける物語です。今回なぜ「中学生に向けた本」を書こうと思われたのでしょうか。

古賀:中学生って、一番揺れていて不安定な時期だと思うんですね。あるときには「もう子どもじゃないんだから」と言われ、別の場面では「まだ子どものくせに」とも言われ、しかも世の中からは「夢ややりたいことを見つけましょう」と要請される。

 自分は何を考えているのか、どういう人間なのか、何がやりたいのかなんて、腕組みして考えてもわからない。でも、書き始めるとなんとなくわかってくる。そういう経験をぼくはたくさんしてきたので、自分の中に降りていくツールとしての日記の書き方を彼らに伝えたかったんです。

――「自分の中に降りていくツールとしての日記」、大人にも必要な気がします。

古賀:大人の読者に向けて書いてもよかったんですけど、大人はどうしても「日記を書いて何の得があるんですか?」って考えちゃうんですよ。今回、ぼくはそうじゃない話をしたかった。損得から離れたところで「日記を書くこと」の意味を受け取ってくれる人は誰だろう?と考えたとき、中学生のみなさんが一番しっくりきたんです。

古賀史健さんnote「『さみしい夜にはペンを持て』刊行のおしらせ。」より
いまの——あくまでも、いまの——自分がほんとうに書きたいこと、そしてほんとうに伝えたいこととは、わかりやすい効能を持たない、むしろ「直接には役に立たない」くらいの本じゃないのかと。

――お二人は中学生の頃、日記を書いていましたか?

燃え殻:ぼく、日記は書いてなかったんですけど、中高生のときは深夜ラジオにずっと投稿してたんですよ。大槻ケンヂさんのオールナイトニッポンとか。当時はメールもないから、親に書き損じたハガキをもらったりして。限られた枠の中で、自分の伝えたいことを、自分が好きでわかってほしい相手にどんなふうに伝えればいいかを一生懸命考えてましたね。

古賀:ぼくもとんねるずのオールナイトニッポンと「二酸化マンガンくらぶ」っていうラジオ番組によく投稿してましたねえ。ハガキが読まれなくても、「今週500通のハガキが来ました!」と言われるだけで嬉しいんですよ。その500の中に俺はいるぞ、って。

燃え殻:ああ、わかる。たまにハガキが読まれると「生きててよかった」って。「くだらねー、はい次!」ってすぐ流されるんですけど、「“生きててよし”って言われたぞ」みたいな気持ちになってました。

古賀:自分の手で書いたものをタカさんが手で持って読んでいる。自分の家にあったハガキが彼らのもとに届いて、彼らの口からその内容が発せられている。その、メールやSNS以上に「つながっている」感覚だけで、ドキドキするんですよね。「ウケよう」と思って書いたことが目に留まって、向こうの考えとぶつかったり一致したりしてカチッと音が鳴る感触が嬉しかったんだと思います。

――それは「書いたものを通じて自分のことをわかってもらえた」という感覚なのでしょうか。

燃え殻:それは半信半疑でしたけど、大槻さんだったらもしかしたらぼくのことをわかってくれるんじゃないか、大槻さんが発信してくれることでどこかの誰かが共感してくれてるんじゃないかとか想像して、自分のありどころがわかるというか。

――学校では「わかってもらえる」感覚は得られなかった?

燃え殻:学校にいるときって「ミスれない」という気持ちがあった気がします。学校だとそれぞれに「人気者」とか「暗い」とかキャラクターがあって、どこかで自分のキャラを踏襲しないといけないじゃないですか。でもラジオネームだと本音が言える、本当を書ける感覚はありましたね。自分の普段のキャラクターは関係ないから。

古賀:学校でのキャラクターって、周りから与えられる役割なんですよね。それに対してラジオネームやペンネームは自分で選んだ仮面だから「本当はこうなりたい自分」として振る舞うことができる。それは「嘘」ではなくて、自分の中の本当で。

 ぼくも「学校の奴らは知らないけど本当のぼくはこうなんだ、タカさんとノリさんはわかってくれるよね?」という気持ちでハガキを送っていました。今書いているnoteも、ラジオネームで演じてた自分の延長にある気がします。

燃え殻:ぼくも、ラジオに投稿していた中学生の頃から恐ろしいくらい全然変わってないですね。今ペンネームを名乗っているのも「この名前なら傷ついても大丈夫」と思えるからなのかなと思います。大丈夫ではないのですが、もはや。

燃え殻さん

書くことが自分をまっとうな人間でいさせてくれる

――「書く」だけではなく「書き続けること」に意味がある、というのは古賀さんが一貫して語っていることで、本作も「書き続けること」が重要なトピックになっています。

古賀:書き続けていくとただの日記帳にも価値が出て、それなりの宝物になるんです。たとえば、3日間だけ書いた日記を友達や彼氏彼女に読んでほしいとは思わないはずです。それが3冊、5冊と溜まっていくと、「読ませたい」と思う瞬間が来るかもしれないし、誰かがそれを書いていたら「読みたい」と思うかもしれない。日記を通じてしか言えないことを伝えられるかもしれない。

燃え殻:ぼくは古賀さんの本を読んで、自分が週刊新潮で連載をやっていることがすごく腑に落ちたんです。こんなこと言ったら週刊新潮の人に失礼かもしれないですけど、週刊連載って、ぼくの中ではいま、日記のようなもので。

――日記。

燃え殻:締め切りがあるので、どうしても取り繕えない日常や自分が漏れて出てきたりして、否が応でも自分が見えてくる。全国誌だし、人に見せるものなんですけど、鍵の壊れた日記を書いている、とぼくは思っています。

古賀:書き下ろしの小説を2、3作書いているだけだったら違ったかもしれないですよね。

燃え殻:そう、だから古賀さんが本の中で言っていたこと、ぼくはすごく納得したんです。毎日書くっていうのは、「冷蔵庫の中にあるもので作る」ような作業なんですよね。酢豚のほうが見栄えがいいだろうと思っても、炒飯しかできないから炒飯を作るしかない。今日はジャコも入れてみました! みたいな。

毎日書いてごらん。噓をついたり、かっこつけたり、本音を隠したりしていたら、とても毎日は続かないから。毎日続けていけば、余計な飾りがとれて、かならずまっさらな自分になっていくから。(『さみしい夜にはペンを持て』より)

――まっさらな自分をさらけ出すのに躊躇することはないですか?

燃え殻:日記を書いて机の引き出しに入れて、それが気づいたら全国誌に印刷されてました……っていうのを繰り返してるんですけど、でもそれでいいやと思ってるというか。

 ぼくは大槻ケンヂさんのエッセイが大好きで、彼は「こんなこと書いて大丈夫?」ってことも書いている。でも大槻さんがあそこまで書いてくれたから、ぼくは勝手に生きてみようかな、とパワーをもらって。どこかでそういうふうに思ってくれる人もいるかもしれない。文章の中では裸になってみよう、返り血も浴びてみようって。

――古賀さんは、どんな気持ちで毎日noteを書いているのでしょうか。

古賀:ぼくはもともと、糸井(重里)さんに会いたいという理由で毎日noteを書くことを始めて。糸井さんも「ほぼ日」で毎日文章を書いている方なので、ぼくもとりあえず1年間書き続けてみて「ぼくも1年書き続けてみたんですけど、これは大変ですね」って言って会いに行こうと思ってたんですよね。実際にそれをきっかけに仲良くさせていただくことができたので、本来の目的からいえばそこで毎日書くのをやめてもよかったんですけど……。

――でも、今も毎日書かれています。

古賀:毎日書いたところで文章はうまくならないし頭も良くならない。でも、書き続けている限りまっとうでいられるというか。変な方向に行きそうになっても、書くことが自分をちゃんとした道に戻してくれるんです。ぼくらはもう50なので衰えも出てきてるんですけど、「今日も書かなきゃ」と立ち戻る場所があるから、気持ち的には変わらずにいられているのかなと思います。

燃え殻:古賀さんは本当に自分を律して生きていてすごい。『嫌われる勇気』と言ってますけど、全然嫌われないですから!

古賀:ははは。

古賀史健さん、燃え殻さん

「ここまで書いても大丈夫だった」を繰り返せば、自分の柵を広げていける

――『さみしい夜にはペンを持て』には、書き続けることで「日記の中の自分」が生まれる、そしてその自分のことを好きになれる……という話が出てきます。書き続けることで自分を好きになる感覚って、お二人はありますか。

ぼくは、ぼくのままのぼくを、好きになりたかった。そして日記を続けることですこしだけ、それができている気がする。(『さみしい夜にはペンを持て』より)

燃え殻:書くうちに「ここまで書いても大丈夫だな」が広がって「これを書いても嫌われないだろう」「こうしてもきっと誰かが理解してくれる」という耐性はできてきた気がします。

 ぼくのエッセイを「ひでえな」と思いながらも読んでくれる人がいる。そう思えたらもっとひどいことが書ける。人に見せてもいい傷が増えてこっちも楽になった、っていうのはあるかもしれないですね。傷を一つも見せられないと生きづらいでしょ。

古賀:書けば書くほど「ここまではOK」は広がっていきますよね。

 たとえ誰にも見せないとしても、気持ちを言葉にする怖さってあると思うんです。自分の中に「ここまでなら書ける」という柵がある。書き続けることは「ここまで書いても大丈夫だった」を繰り返して柵の範囲が広くなり、自分の牧場が大きくなっていくことだと思うんです。そのチャレンジを何年も続けていると、気づいたらすごく大きな牧場ができていて、その中で自由に振る舞うことができるようになる。

燃え殻:ぼくは「きっとどこかに自分を理解してくれる人がいる」というのを、文章を書きながら学んでいたんだなと気づきました。

 この仕事がなくなっても、自分はきっとどこかでどうにかして生きていける。書き続けてきたことで「どんな状態でも自分でいよう」と思えるようになったかもしれません。

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