【京極夏彦特集】作家デビュー30周年記念! これまでと今、そして「百鬼夜行」シリーズ17年ぶりの新作長編について語る<ロングインタビュー>

文芸・カルチャー

更新日:2023/9/15

 ※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2023年10月号からの転載です。

京極夏彦さん

 1994年、『姑獲鳥の夏』をひっさげて登場した京極夏彦さんは、一躍ミステリー界に旋風を巻き起こした。あれから29年、京極さんが生み出した物語の数々は、現代のエンタメ全般に大きな影響を与え続けている。作家生活30周年を間近に控え、現代の戯作者は何を語るのか。京極さんのこれまでと現在に迫るロングインタビュー。

取材・文=朝宮運河 写真=山口宏之

advertisement

 一作のエンタメが時代を大きく変えることがある。

 1994年9月に刊行された『姑獲鳥の夏』はまさにそんな作品だった。当時まったくの無名だった作家が放った長編はミステリーファンのみならず幅広い層に衝撃を与え、「百鬼夜行」シリーズの第1作として、日本のカルチャーシーンに絶大な影響を与えることになるのだ。

 それから29年、シリーズ17年ぶりの長編『鵼の碑』がついに刊行される。『邪魅の雫』においてタイトルだけは明かされていたものの、長く謎のベールに包まれていた『鵼の碑』とはいったいどんな作品なのか。その秘密にネタバレなしでぎりぎりまで迫りながら、「百鬼夜行」シリーズの魅力と現代の戯作者・京極夏彦その人の素顔を探ってみたい。

 あらためてプロフィールを確認しておくと、京極夏彦さんは1963年、北海道生まれ。高校卒業後、デザイン系専門学校の名門として知られる桑沢デザイン研究所に進学した。

 まず確認しておきたかったのは、京極さんが小説家を目指したのはいつか、ということである。

「目指したことないですし、いまだになりたいと思ってないですね。デビュー作を書くまで小説を書いたこともありませんでした。いや、正確には小学6年の時、同級生に読ませるための駄文を書いたことがありますが、短いし、小説とは呼べるようなものではなかったですね。刑事コロンボが犯人でもなんでもない人を犯人に仕立てて、『因果だね』と言って去っていく、というひどい話でした(笑)」

 高校時代は美術部に所属していたという京極さん。桑沢デザイン研究所を選んだのは、絵が得意だったからというよりも、大学進学そのものへの反発心からだった。

「絵を描くのが嫌いだったわけではないんですけど、美術で身を立てようとは思ってなかったですね。進学先には民俗学か宗教学を学べる大学を希望していました。ただ当時は学校側による厳しい進路指導があって、『倍率が高いうえに、合格しても将来つぶしがきかない。美大のほうが確実だ』と言われて。まあそうなんでしょうが、ヘソを曲げて、なら大学なんか行くもんかという」

 郷里・北海道を離れて初めての東京暮らし。しかし生活は楽ではなく、教授の経営するデザイン事務所で働くようになる。

「当時我が家は学費も家賃も滞納しちゃうような赤貧だったんですよ。米も買えないという経済状況でしたね。貧乏な友達同士で食材を持ち寄ったり、小麦粉を水で溶いて焼くだけという、お好み焼きならぬ“好むと好まざると焼き”などで糊口をしのいでいるようなありさまで。結局学費が払えなくなって、教授がやっている事務所に雇ってもらったんです。そうすると勉強しながらお金がもらえるでしょ。働き出したのが18歳で20歳には結婚していたので、社会に出るのは早かった。それから今まで、途切れることなく働き続けてます。時流を鑑みるに何の自慢にもなりませんが」

 しかしデザイン事務所の業務はとてつもないハードワークだった。やがて広告代理店に転職。20代にして制作部副部長となるが、職場環境はホワイトとはいえなかった。広告の存在意義に疑問を抱いたこともあり、友人たちとデザイン事務所を設立。デザイナーとして独立を果たした。

「地道にデザインの仕事をやって慎ましく暮らしていければいいやと思っていた矢先にバブル崩壊ですよ。景気が悪くなるとまず削られるのがデザイン関連の予算ですからね。仕事がなくなったうえに仕事が早い僕は大いに時間を持て余し、かといって同僚が仕事をしているのに家には帰りにくい。通るわけもない企画書を書いたりしてごまかしていたんですが、限界がありますよ。それで会社のワープロを使って、仕事しているふりをしながら小説を書いてみたんですね。社益にならないし宜しくない(笑)」

暇つぶしから生まれたデビュー作の原稿

 デザイン事務所の業務をこなしながら、半年ほどで書き上げたこの原稿こそ『姑獲鳥の夏』だった。京極さんによればオリジナル原稿は書籍版よりさらに長く、カットされたエピソードも含んでいたという。ということは『完全版・姑獲鳥の夏』が出せるのでは?

「データなんて残っていないです。思い出して書き足す意味もないですし。作中に薬物を多量摂取して死亡する人物が登場するんですけど、それも同一犯人による殺人という設定だったんです。でも凡庸なトリックだったし、構造上不必要だったので丸ごとカットした覚えがあります。元の原稿から100枚から200枚は削ったと思います」

 完成した原稿の束を見て京極さんは考えた。この小説をなんとかお金に換えられないものだろうか? 新人賞に応募するには長すぎる。残る選択肢は昔ながらの持ち込みしかなかった。

「ゴールデンウィークになってもどこにも行けないんですよ、貧乏で。目に入るのはプリントアウトした紙の束。これ、電気代もかかってるし、インクと紙も使っているのに、後は捨てるだけでしょう。このままでは無駄の極み。そこでどうせ誰も出社してないだろうと思って講談社に電話をかけてみたら、残念なことに編集部に人がいて、しかも書いたのなら送ってみなさいなんて」

 原稿を読んだ編集者が「有名作家の変名ではないか」と疑ったというのはよく知られたエピソードだが、それも納得だ。ミステリー史に残る傑作が、ある日突然送られてきたのだから。

 90年代前半といえば本格ミステリーの新人が次々とデビューを果たした、いわゆる新本格ムーブメントの最中だった。京極さんはそうした動きを、どの程度意識していたのだろうか。

「思えば、ジュブナイルのルパン、ホームズ、『少年探偵団』あたりを経て、春陽堂の江戸川乱歩に手を出した時期と、『定本 柳田國男集』を読み始めた時期って重なっているんですね。小学校中学年くらいで探偵小説と民俗学が同時に進攻してきたわけです。中学に入ると映画『犬神家の一族』を先頭に、角川文庫が横溝正史を続々と送り込んできて。もう全部読むわけ。そうなると類似書も読むでしょう。松本清張はなぜか古代史方面のほうから攻めてくるし。角川は森村誠一先生を推してくるし、内田康夫先生が『死者の木霊』でどんと登場して、まあ安定供給ですね。でも、既刊を読み終えてしまうと新刊待ちになるでしょう。民俗学方面は新刊も少なくて。で、上京した僕の前に颯爽と現れたのが『占星術殺人事件』『斜め屋敷の犯罪』、そして『憑霊信仰論』だったんですね。乱歩と柳田を同時に読んだように、図らずも島田荘司と小松和彦を一緒に読んじゃった」

 小松和彦は妖怪研究で知られる文化人類学者・民俗学者だ。82年に刊行された『憑霊信仰論 妖怪研究への試み』は、憑依現象を鋭く分析した名著で、『姑獲鳥の夏』の参考文献にもあげられている。

「文化人類学ならともかく、民俗学的な考察に構造論的な手法を応用するというのは画期的だったんじゃないかと思うんですよね。小松さんの、それまでとまったく異なるアプローチで憑物を分析していく手つきは、本格ミステリーの醍醐味そのままでした。そんな最中に、今度は新本格ムーブメントが発動したわけで」

 ミステリーと民俗学、さらに宗教学、時代劇など「好きな要素をごちゃごちゃ混ぜた」結果生まれたのが、『姑獲鳥の夏』という革新的なミステリーだった。

 その中でもメインモチーフになっているのが、今や京極世界の代名詞ともなった妖怪だ。「百鬼夜行」シリーズの作品タイトルはすべて、江戸時代の絵師・鳥山石燕の妖怪画に由来している。

「その後、バブル崩壊後の荒野に、一時息を潜めていた“妖怪”が胎動し始めるんですね。長く全巻復刻されることがなかった石燕の『画図百鬼夜行』が93年1月に国書刊行会から出版されます。監修は後々大変お世話になる国文学者の高田衛先生。残念ながら先頃お亡くなりになってしまいましたが。そして水木しげるロードの着工も同じ年なんです。筋金入りの水木ファンとして“妖怪”の跳梁は喜ばしいことだった(笑)」

 妖怪といえばこの時期、京極さんは人生の師と仰ぐマンガ家・水木しげるさんと初めて対面を果たしている。

「デビューする直前の94年夏、境港で水木しげるロード第2期工事完成記念コンベンションというのが行われたんですよ。関東水木会という、ならず者の集団のような名前の水木さんのファン集団がありまして、そのメンバーでコンベンションに参加しました。僕だけお金がなくて夜行バスで行ったんですけどね。そこで僕が撮影したビデオを編集して、音楽やテロップを入れて仲間に見せたら、これはぜひ水木先生にも献上すべきだ、という運びになって。僕はやめてくれと言ったんですが、どうしても送るというから、パッケージまで作りました。そしたら水木プロからお呼び出しがかかって、『あんた、こういうことできますか』と水木先生が撮影した8ミリフィルムの編集を頼まれたんです。僕が自作したビデオのパッケージをご覧になって、『あんたは絵も描くんですか』と。ええまあと返事をしていたら『うちに来なさい!』と水木プロにスカウトされてしまったんですよ」

 水木しげる御大直々のスカウトに京極さんの心は揺れたという。

「小説家と水木プロの二足のわらじを履こうか、とも一瞬考えたんですけど、デザインの会社もあったし、三足は無理。迷った末に『デビューが決まっているので』とお断りしました。小説家やめて入っておくべきだったかなあ(笑)」

あわせて読みたい