発売後即重版決定!長濱ねる初のエッセイ集『たゆたう』インタビュー&試し読み公開!

小説・エッセイ

公開日:2023/10/6

清く正しく名に恥じぬ休日

 急に冷え込んできた。今日は休みなのでアラームに起こされることもなく、思う存分寝ることができた。未だ暖房をつけずに耐えている私は、布団に埋まり、携帯で時刻を確認する。

 もう十二時を過ぎていたらしい。ごそごそとリビングに移動し、すぐさま電気毛布にくるまった。布団から出て二秒、ソファの上で同じ体勢である。とりあえずテレビのリモコンを手に取った。「どうも~、悪い時もいい時も自分だ。バッドナイス常田です」ふっ。急に映し出された芸人さんの挨拶が、やけに核心をついてきて声が漏れる。悪い時もいい時も自分、か。ほんとその通りだ。

 私は、ここ最近ずっとおばあちゃんになりたい、と考えている。人生においてのいろんなものをすっ飛ばして、早く戦線離脱したい。ギーコギーコと揺れる木の椅子に座りながら一生本を読んでいたいし、暖炉の前で温まる大きなゴールデンレトリバーを見ながら編み物をしたい。早く歳をとって、晩年を過ごしたいのだ。理想のおばあちゃん像は、『100万回生きたねこ』に出てくる、ずっと窓の外を眺めながら一日を過ごすおばあちゃんだ。あの姿はとても尊い。

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 私の実家で一緒に住んでいる祖母も、あまりにおばあちゃん然としたおばあちゃんである。朝起きたら、砂糖とバターをたっぷりのせたトーストを食べる。その後は庭のお花の世話をしながら、飛んでくる小鳥たちを愛でる。それから縁側に座る。この時間がすごく長い。テレビを見てる訳でも本を読んでいる訳でもなく、ただそこにいるのだ。

 もしかしたら私に見えていないだけで、何かしているのかもしれない。同じく何をしているのか疑問に思っていた姉が、祖母に聞いてみたことがあるらしい。

 じっと座っている時は、頭に日本地図を思い浮かべて都道府県を上から順に思い出していったり、花の名前を知ってるだけ言ってみたり、あとは、手のシワを数えている、とのことだった。私は感動した。想像以上にいろんなことをしていたのだ。手のシワを数え直す……。私も一度挑戦してみたが、シワと手紋の境がわからず、心が折れた。やはりおばあちゃんとしての鍛錬が足りていないらしい。

 祖母に想いを馳せていると、テレビの画面はいつの間にか通販番組に切り替わっていた。ソファに寝転びながらザッピングしてもあまりそそられず、好きな海外ドラマを流すことにした。セリフも展開も全部知っているシーンを、惰性で見つめながら、もう一度うとうとし始める。

 普段から一人でいる時間がとても好きだ。そして家の中が一番気が楽である。休日は基本的に家から出ないし、できるだけ長く寝ていたい。「ねる」という気が抜けた本名も気に入っている。「長濱 てきぱき」や「長濱 手際よし」などの名前じゃなくて良かった。名前、〝ねる〟だしなあ……とぐうたら休日の免罪符にできるから。

 そういえば、寝てやらかしたことあったな。夢現の境で、高校時代が頭に浮かんだ。

 高校二年生の秋、私は長崎の共学校から東京の女子校に転校した。流れるプールのような人混みに悪戦苦闘しながら通学し、校内ではクラシック音楽が常時流れるトイレに馴染めずにいた。こんな異世界で生活できるのか、しばらくプチパニックの日々が続いた。

 やらかしたのは転校初日の一時間目、政治経済の授業の時だった。担当は生徒に人気がありそうな清潔感のあるダンディな先生。東京といえども、さすがに洗練されすぎでは……と衝撃を受けた。長崎での、年中半袖の元気はつらつ先生や、ヘビースモーカーすぎて咳が止まらず全然授業が進まない先生との日々を懐古する。元気にしてるかな。つまらないと思っていた日常が少し恋しく感じ、上の空のまま板書をノートに書き写していた。

 キーンコーンカーンコーン。ばっ。意識が戻る。時計を見ると授業終了を知らせるチャイムであった。開始十分以降の記憶がない。転校初日の一時間目、辺りは馴染みのない景色である。一瞬、異世界に転生してきたかと疑ったが、要するに三十分以上爆睡してしまっていたようだった。この状況を信じられずにいる私は、周りを見るのが怖く、ゆっくりと顔をあげ前方だけを見つめる。

 さすがに一時間前くらいに『長崎から転校してきました、長濱ねるです。よろしくお願いします』としとやかぶって挨拶したやつが、すぐ爆睡するのはキャラが違いすぎる。

 何事もなかったかのように平然と終わりの挨拶をしたが、みんなの温度感がわからない。案外ばれていなかったのかもしれない。いくら名前が〝ねる〟だからと開き直っていても、今回ばかりは印象が良くない。初日はとても大切なのに。

 誰かと目が合うのが怖く、休み時間になっても教科書をパラパラとめくって過ごした。「にっしーまた遅刻?」空席だと思っていた隣の席に、くるくるとした猫っ毛が特徴的な女の子がゆっくりと到着した。にっしーと呼ばれているらしいその子は、のんびりとした口調で何か弁解をしている。一気に教室の氷が溶け始めた。救世主にっしー、本当に助かった。

 眠りかけていたが、あの恥ずかしさを思い出し起きてしまった。にっしーは元気にしているのだろうか。あの後しばらく経ってクラスに馴染んできた頃、初日の爆睡についてクラスメイトから総ツッコミを受けた。得体の知れない転校生が初日の一時間目から寝ていたら、私でもその図太さに恐怖を覚えると思う。先生も注意できずに戸惑っていたらしい。そりゃそうである。

 知らぬ間にドラマは結構進んでいて、好きなシーンに備えソファから体を起こす。ぐるるる、お腹の音が部屋に寂しく響き渡った。空腹の時はいつもお腹が鳴るのだ。何か食べるものはあるだろうか、キッチンを物色しに向かった。

 中学三年生、その頃の私の一番の悩みはお腹が大きな音を鳴らすことだった。できるだけ人の注目を浴びないよう、隙間隙間を抜けるように過ごしていた私は、本当に心の底から悩んでいた。もしお腹の音を誰かに聞かれて突っ込まれても、正直に認めることも否定することもできず、ただただ赤面してしまうので、そもそも鳴らさないがベストアンサーだった。

 授業中に鳴りそうな時は、机や椅子を引くことで音を立て、誤魔化した。朝ごはんもちゃんと食べている。人よりも大食いという訳でもない。そういう体質なのか、原因を突き止められずにいた。

 全校生徒が体育館に密集する集会は、毎回緊張していた。音を立てて紛らわせる椅子も机もない。

 その日は合唱コンクールが体育館で行われる日であった。さあ、今日という日を何事もなく乗り越えるぞ。私は、ラスボスの待つ大きな城を下から見上げているような気持ちだった。二年生の合唱から始まった。一組の合唱中、もうお腹が鳴った。全然序盤、お城の扉を開けたくらいだ。道のりはまだまだなのに、ラスボス(腹)はもう戦闘態勢に入っているようだ。周りの反応が気になって合唱どころじゃない。とりあえずは歌っている最中だったため、周りにはばれていないみたいだ。

 二組が終わり三組。嫌な予感がしていた。二組目の時に一回も鳴らなかったのだ。爆音ビッグウェーブの予兆だ。今だけはどうか……。冷や汗が出てきた。

 三組が壇上へ移動すると同時に、曲名と指揮者、伴奏者のアナウンスが始まる。どうせ鳴るならここで鳴ってください。今! 今! むしろ今鳴って! こっちも必死である。

 司会者がプログラムを読み終え、静まり返る体育館にザッザッザッと三組の足音だけが聞こえていた。

『ギュルギュルグゴゴオオオオ』

 かつて聞いたことがない大きな音が鳴り響いた。無論私の空腹を知らせるお腹の音である。一瞬、体育館中の時が止まった。私でさえ地響きかと思った。至る所からクスクスと笑い声が漏れ、次第に広がった。私の半径2m以内の人は確実にここ付近に犯人がいることを確信し、音の出所を探している。

 本当に申し訳ないのだが、誰も私を疑わない。できるだけ何事にも巻き込まれまいと休み時間は図書室に逃げ込む生徒である。私がまさかそんな爆音を鳴らすとは思っていないのだろう。

 案の定、私の真後ろに座っていたまっすーと呼ばれる野球部の男の子に矛先が向いた。「おいお前だろう」周りの男の子たちが詰め寄る。「俺じゃない俺じゃない」まっすーさんは一生懸命否定している。そりゃそうだ、犯人は私なのだから。どうか三組よ、もう合唱始めてくれ。この退屈な空間に飽き始めていたみんなは、犯人探しに躍起になっている。振り返って自白するべきか、やりすごすべきか、良心の呵責に苛まれていた私に、横に座っている隣のクラスの女の子がボソッと呟いた。

「長濱さんだよね」

 一気に汗が流れ出した。正真正銘、私発信の音だ。チラッと隣を見るとその子と目が合った。ただうなずくことしかできなかった。

 その瞬間、ようやく合唱が聞こえてきた。騒ぎは収まったが、後ろのまっすーさんが気になって仕方がない。結局何も言えぬままコンクールは終わった。

 帰り道、罪悪感が消えない私は、友人に打ち明けた。「噓、まじ!? ねるだったの?」爆笑していた。案の定遠くにいてもはっきり聞こえるくらい響き渡っていたらしい。彼女に笑ってもらうことで、まっすーさんへの罪悪感を少し昇華させた。

 結局今の今まで謝らずじまいである。あの時の卑怯な態度を、まっすーさんにいつか会えたら謝りたい。完全な濡れ衣、覚えているだろうか。

 そんなことを考えながら、ストックしておいたカップラーメンにお湯を入れる。不健康に過ごすことでしか満たされない幸せがあると思っている。まだきっと起きてから十五歩程しか歩いていない。そして、このまま一日何もすることなく終わっていくのだ。