D【di:】ロングインタビュー 2003年5月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

『ANGEL MEAT PIE』は、イラストレーション、カラーコミック、ミニストーリーを含む六つの作品に、作中と同名タイトルの二曲を収めたシングルCDをパッケージングしたD[di:]さん初の中短編集である。
 作品集の中心に位置づけられる表題作『ANGEL MEAT PIE』は、七歳の誕生日の朝、母親の作ったミートパイを口にしてからすべての人間の顔が紙袋にしか見えなくなった主人公エナが、無垢な女の子リカに出会い彼女を失う経験を通して、女優としての才能を開花させていく物語。エナとリカの魂の軌跡が、読む者の心に強く刻み込まれる。

──他人の顔が紙袋に見えてしまうという設定がリアルですね。
D[di:] ある日、頭が紙袋の人間がたくさんならんでいる情景が頭の中に浮かんだんです。それがすごくリアルでおもしろかったのでお話にしなきゃって思った。エナはなぜ人の顔が紙袋やゴミ袋に見えてしまうのか、というか、何でそんな情景が私の頭の中に浮かんだのかと言うと、私の中にある不安定な人間不信や子供時代の体験がきっかけなのではないかという結論に落ち着きました。
──非常にリアルでシリアスな物語ですが、紙袋を被った人間というヴィジュアル的にどこかで笑いたくなってしまう部分を含んだ作品ですね。微妙なバランスで成り立っている作品だと思いました。

D[di:] 笑いと悲しみは表裏一体だとおもいます。たとえば『悲しいピエロ』ってどこの誰がいったかは分からないけど、使い古されたというか、歌詞とかだとヤバイかんじの表現も、言い得て妙というか。それに、いつも思うのは、ギャグ漫画家と認知されている作家さんの、シリアスものってすごい深い。っていうか、不快(笑)なくらいまでズシン!てくるものがあるんですよね。たとえば業田良家さんとか、古谷実さんの『ヒミズ』とかね。今回の作品より前作『キぐるみ』のほうがそういう傾向は出ていたと思いますが、つねに作品をつくる上で意識しているかもしれません。
──最初にヴィジュアルありきということですが、それはすべての作品でそうなんでしょうか。
D[di:] そうです。自分の頭の中に沸き上がった映像をとにかく外に出してみることから創作は始まります。
──その時の映像というのは、停止したヴィジョンなんでしょうか。それともアニメーション的な動画なんでしょうか。
D[di:] 実写ふうの映像だったりアニメーションっぽかったり、絵本の絵のようであったり、風景であったりいろいろですね。あたしの頭のなかは、つねに混乱してるし、混在してるから。

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──『キぐるみ』はテキストの分量が多く絵と文が拮抗している感じがありましたが、『ANGEL MEAT PIE』はテキストが少なくなったぶん表現的にはマンガ寄りになったような気がします。
D[di:] 『キぐるみ』の発表媒体は「文藝」(河出書房新社)でした。「文藝」は季刊ですし、自分に与えられた紙幅は毎回16ページしかありませんでした。限られたページの中で私が表現したいことを完結させるためには、あれだけの文字量が必要だったということです。
『ANGEL MEAT PIE』は「コミックH」(ロッキンオン)というマンガ雑誌に連載したのですが、『キぐるみ』でできなかったような文字をぐるぐる巻いた表現とかコマの空間や余白を使って「間」みたいなものを表現したかった。この作品では、絵の一部として文章が見えるようなことをしてみたかったんです。マンガ的というより、『キぐるみ』でできなかった絵の要素をもっと自由にレイアウトしてみたかった。
──そうすると『ANGEL MEAT PIE』は、D[di:]さんが理想とする絵と言葉の融合表現のイメージに近いということでしょうか。
D[di:] その辺はもっとやってみなければわかりません。『ドニー・ダーコ』もノベライゼーション作品としては文章量を少なくして、コマ割りではない形でやってみたんですが、ああいうやり方もありだということが確認できました。いまは自分にとってのベストを模索している状態ですね。

──確かにこれまで発表されたD[di:]さんの作品を見てみると、すべて形式が違いますね。
 言葉のレベルでいうと、『キぐるみ』の場合、ジャパニーズ・スラングというかラップっぽいナレーションが採用されていましたが、『ANGEL MEAT PIE』は詩に近い言葉が選ばれています。男の子と女の子の言葉の違いということもありますが、言葉のモードの変化は意識的なものなのでしょうか。
D[di:] 確かに女の子が主人公になると、言葉は変わってきますね。『キぐるみ』の方が自分の内面に近い言葉で書かれているとは思いますが。
──D[di:]さんの作品の登場人物は、目に特徴があります。『ANGEL MEAT PIE』ではエナは黒目、リカは白目と塗り分けられています。それぞれ陰と陽、闇と光の領域を受けもった対照的なキャラクターとしてとらえることができますね。
D[di:] エナとリナは光と闇を見据えることができる純度の高いキャラクターです。エナは人を冷めた目で見てしまうクールな部分がある女性で、リカは反対に何でも受け止めてしまう人ですね。相補的な関係といっていいと思います。この2人は、2人でひとつ、みたいな関係性にしたかった。陰陽のあのマークみたいに。

 確かに、いつもは片一方の目が黒くてもう一方が白いキャラクターを書きます。
──今回の短編の中では、『私の名前は駄利亜。』や『シロップ』の女性キャラクターがそうですね。
D[di:] そうです。
──『ANGEL MEAT PIE』はシリアスで過酷な物語ですが、エナとリカの戯れあったりくっつきあったりたりする日常の関係は、女の子同士ではありがちな自然なものですよね。
D[di:] 女の子同士のいちばん楽しい関係を描きたかった。『キぐるみ』のママンとトシの関係もそれに近いと思います。彼らは男の子同士ですけれど。

──この作品は、離人症や視線恐怖など、精神分析的な読みが可能です。関係の病理を描くという部分は意識された点でしょうか。
D[di:] この作品を書いている頃、他人の目が怖くなって外を歩くときにはサングラスをかけていたんです。そういう自分の体験からきているものはあると思います。それと私は小さいときから目が悪かったんですが、眼鏡やコンタクトをするようになってそれまで見えなかったものが見えてしまったときの衝動は、私の深い部分に刻み込まれているような気がします。
──エナは少女時代、家族とともに「農場」に住んでいます。その後母親の再婚と同時に「町の中心」に引っ越し、映画監督に認められたエナは中学卒業とともに「都会」に出てきます。作品で描かれる「農場」は、『キぐるみ』と同様、北海道がモデルなのでしょうか。あまり日本的な感じがしないのですが。
D[di:] そうですね。『キぐるみ』はとりあえず裏設定としては北海道を舞台にしているんだけれど、どこの国のどこの町でもないような場所、というか、どこの国のどこの場所でもおこり得ること、を強調したかったので、ああいう遊園地っぽい町に設定したわけです。『ANGEL
MEAT PIE』もそうで、どこの国とかはっきりと限定したくなかった。日本の今の状態を絵にすると、この作品ではすごく、絵的におもしろくないものができたともおもうし。おとぎばなしのようにしたかったので。
──物語の最後で、リカを失ったエナは妊娠し男児を出産します。妊娠の根拠は明らかにされず、一つの謎として読者に示されます。エナの子供はリカと同じ白い目をもっているわけで、リカの再生とも読めます。まったく身に覚えのないエナの妊娠という現象に、D[di:]さんは何を託されたのでしょうか。

D[di:] 最後に奇跡を起こしたかったんです。失ったものの後に残ったものを描きたかった。リカが死んだ後に残るものっていったい何だろう。そのことを考え詰めてあのようなラストにしました。『キぐるみ』のラストシーンと同じように、私が考えている解釈は何通りかありますが、すべては読者に委ねたいと思います。私はもう作品を読者に提示しているのだからこれ以上言葉で答えを出したくないです。
──これまでのD[di:]さんの発表作品は主として長編ですが、『ANGEL MEAT PIE』は中短編集です。さらに、『ANGEL
MEAT PIE』と『シロップ』の二作については同名音楽を収録しているという点において新しい展開がみられます。『ANGEL MEAT PIE』刊行とほぼ時期を同じくして音楽活動を本格的に開始されるということですが、その全容は本作でプレリリースされている二曲を含むアルバム『駄利亜(ダリア)』(東芝EMI)において明らかになると思います。
 テクノとパンクとクラブカルチャーが合体したデジロックという音楽ジャンルとノベルコミックを結びつけようとした発想の出発点は、どこにあったのでしょうか。

D[di:] 私の好きなものを本の中にパッケージングしたかったんです。D[di:]という世界を表現するには、デジロックがいちばんしっくりくるジャンルだと思った。私の頭の中のように混乱している感じが。
──ノベルコミックの静謐なトーンに対して、曲の方はデジパンクということもありアグレッシヴな高揚感漂う作風です。静と動という点で対照的ですが、D[di:]さんの中では両者はどのようなロジックで結びつけられているのでしょうか。

D[di:] 物語の中の情景を歌うのではなくて、彼女が生活している中で一瞬思ったかもしれないような感情が楽曲には含まれています。私の中では世界観は一緒です。私の場合、“怒り”の要素は作品をつくる上での原動力になっているんですが、そういう感情を『キぐるみ』では言葉で表現したんですけれど、今回は感情をダイレクトに表すためのツールとして音楽を使ってみようと思いました。
──怒りということでいえば、『ヘンゼルとグレーテル』の童話をなぞるように「おかしのおうち」を求めて旅をする兄妹を描いた短編『Hazel&Gratel』で常時燃え続ける兄の顔は、世界に対する原初的な怒りを表しているといえますね。
D[di:] 『Hazel&Gratel』も“頭が燃えている人”というヴィジュアルから入った物語です。頭が燃えている男の子の隣で泣いている女の子がいて、ふたりで旅をする。ふたりは兄妹で…。というふうに設定を広げながらお話しをつくっていきました。最初から『ヘンゼルとグレーテル』のパロディとして構想したわけではなくて、物語をつくっていく中で『ヘンゼルとグレーテル』とのつながりに気づいたということですね。
『私の名前は駄利亜。』と『シロップ』に登場する女の子の頭にツノのようなものがありますが、これも怒りの象徴です。
──四ページ構成のイラストレーション作品『SEW-UP』は、仲良し女の子二人組がタイトルそのままに自分たちの体を糸で縫い合わせてしまう話です。エナとリカの精神的な絆を身体レベルで表現した作品というふうにも読めます。

D[di:] そうですね。ポップな感じで描くとああいうふうになるんですね。ただし『SEW-UP』のふたりは普通の友達で、縫い付けあっているのにけんかしたりとかしそうな雰囲気がありますね(笑)。実は頭の中に物語はあるんですけれど、それは書かないでイラストレーションだけで表現してみたんです。
──『生ゴミバケツの子供達』は楽しそうに語らう小学生の男の子と女の子の話ですが、痛ましい姿の描出や会話の内容から、彼らが虐待やいじめの問題に直面していることが示されます。
D[di:] 親からの虐待を受けた友達の話を参考に書いた作品です。本人たちは意外にあっけらかんとしているんです。痛ましい話だけれど、どこかに救いがあるのはそういうシリアスな状況を乗り越えた人の話を参考にしたためかもしれません。
──『シロップ』はイラストレーションの余白に、リリカルな言葉を書き連ねた作品です。シロップという言葉に重ねて、D[di:]さんの作品の特徴の一つであるどろどろしたものが溶け合っていく感じが巧みに表現されているように思います。
D[di:] 『シロップ』は、アメリカの9・11の事件を表現しているんです。テレビの中に映っているのはブッシュ大統領です。──アメリカ的なものに溶け込んでいくという『ファンタスティック・サイレント』のテーマにもつながっていますね。

D[di:] そうですね。
──収録作品を通読すると、『ファンタスティック・サイレント』から始まったD[di:]さんの表現世界が広範囲にひろがっていることがわかります。『キぐるみ』でノベルコミックという新しいジャンルを作り、『ドニー・ダーコ』では原作自体の魅力をD[di:]的世界に奪還するようなスリリングな試みがなされた。現在、Shinichiro
Arakawaとのコラボレーション実現の話も聞いています。アート、文学、音楽、映画、ファッションの境界をボーダレスに横断していくその創作へのスタンスがどこまで広がっていくのか興味は尽きませんが、いっぽうで小説的なコンテンツが希薄化していくのではないかという不安もあります。

D[di:] いろいろなジャンルに挑戦すればするほど、自分の作品を書かなきゃいけないという焦燥感に駆られます。忙しくて書けないときに限っていろいろ思いつくんです。いまは作品に集中できる時間がほしいですね。これまでいろいろ実験的なことをやってきましたが、いずれ文字だけの小説にも挑戦してみたいと思っています。それも私にとって大切な実験のひとつだから。