宮下奈都の『羊と鋼の森』ついに文庫化!「現実で起こり得るかもしれない、奇跡の瞬間を描きたかった」

新刊著者インタビュー

2018/3/15

 ピアノの調律師の道を歩む主人公の苦悩とともに、この世界の美しさと豊かさを描き出すことに成功した、宮下奈都の長編小説『羊と鋼の森』がついに文庫化される。2016年本屋大賞第1位に輝くなど、単行本刊行直後から祝福が相次ぎ累計80万部を突破。初版6500部からの、シンデレラストーリーだ。

著者 西加奈子さん

宮下奈都
みやした・なつ●1967年福井県生まれ。2004年、『静かな雨』が文學界新人賞に佳作入選し作家デビュー。2015年に刊行した本作で、2016年本屋大賞第1位、「キノベス!2016」第1位、「ブランチブックアワード2015」大賞の三冠に輝きブレイク。その他の著作に『スコーレNo.4』『よろこびの歌』『誰かが足りない』『田舎の紳士服店のモデルの妻』などがある。

 

 執筆のきっかけは、実家のピアノを3歳の頃からずっと調律してくれていた、調律師の言葉に触れたことだそう。「このピアノの中にはいい羊がいますね」。ピアノは鍵盤を叩くと、内部にあるハンマーが弦を叩いて、音が鳴る。音色を決定する重要な要素は、ハンマーにかぶせる羊毛のフェルトなのだ。「このピアノの中にはいい羊がいますね」。ピアノの中には「鋼」を鳴らす「羊」がいる――。そのイメージが、「森」の、自然のイメージと結びついていった。

「ちょうどその頃、家族で1年間、北海道の山奥で暮らすことになったのも大きかったです。山奥の小学校に来る調律師さんがすごく面白い人だった、という直接的な経験もあれば、例えば森の中を歩いていたら〝あっ、海みたいな音がする〞と。そのことを主人公に感じさせることで、彼の音楽的素養のひとつにすることができた。普通に生活しているだけでも、何を見ても、この小説に繋がっていく。書きたいことがどんどん湧いてくる、作家として幸運な体験をしたんです。その状態のままやり切れたっていう満足感で十分、幸せだったんですよ。こんなにたくさんの方に読んでいただけるなんて、嬉しい誤算でした」
 

調律の世界、調律師の言葉を小説として表現するためには

〈僕は時間を持て余していた。するべきことが思いつかなかった。したいこともない。このままなんとか高校を卒業して、なんとか就職口を見つけて、生きていければいい。そう思っていた〉

 北海道の高校に通う「僕」――外村が、高校2年の2学期に、ピアノの世界と出会うシーンから物語は始まる。教師から学内の案内をするよう頼まれた相手は、調律師という聞き慣れない肩書きを持っていた。その男性――板鳥さんが、体育館のピアノを鳴らすと〈森の匂いがした。(中略)問題は、近くに森などないことだ〉。爽やかな衝撃に貫かれた「僕」は、弟子入りを志願し、調律師となることを志す。

「他の人にとってはどうってことないようなことも、その人にとっては人生を変えられるぐらいの衝撃がある。人生が変わる瞬間って、意外とそういうものなんじゃないでしょうか」

 2年制の専門学校を卒業した外村は、板鳥さんが働く江藤楽器に就職する。板鳥さんと出会うまでピアノを弾いたこともなければ、クラシック音楽の専門知識もない。この道を進むという思いは強固だが、自分を疑う瞬間は幾度となく訪れる。

「自分は特別なものを持っているわけじゃないって気持ちは、私も外村くんと同じです。ただ、自分に才能があるのかとかセンスがあるのかとか、このままこの場所でやり続けていいのかってことって、若い人の方が怖がるんじゃないでしょうか。私は初めて小説を書いた時が36歳だったので、才能とかそんなこと気にしてる場合じゃなかった(笑)。書きたいから書くんだって気持ちだったんですよね。今も結局、つらいことや怖いなと思うことがあるけれども、最後は好きだから書くってところに戻ってくる。外村くんも、迷うことがあっても、そこに戻っていける人なんじゃないかなって」

 外村にとって板鳥さんは憧れの存在、心の師匠だが、売れっ子ゆえに多忙。教育係についてくれたのは、明るい性格の柳だ。もうひとりの先輩・秋野は、元ピアニストで独特の空気の持ち主。3人の先輩調律師の存在が、外村を刺激する。この関係性が、心地いい。

「ずっと前から、師弟関係が書きたかったんです。私には恩師と呼べる人がいないので、小説の中で書いて味わってみたかった。ただ、それだと縦の繋がりだけなんですよね。調律を依頼してくる〝双子〞を思い付いた時に、世界が横に広がって、物語が立体的になっていったんです」

 双子とは、姉の和音と妹の由仁、双子の高校生のこと。外村が学ぶのは、先輩たちからだけじゃない。ピアノの調律を依頼してくる、顧客からも多くのものを学んでいるのだ。例えば、調律の方向性を「やわらかい音で」とリクエストされた時、「やわらかさ」をどのように捉え、どう音色に反映するか? ピアノの調律は、言葉の営みでもあるのだ。

「取材で調律師の方に何人かお話を聞いた時、みなさんすごく具体的で、地に足のついた言葉を使われることに驚きました。〝感覚です〞とか〝センスに頼ります〞みたいなことを言わないんですよね。ただ、だからといって〝ここを何ミリずらす〞とか、そういう描写をしてもあまり面白くない(笑)。そこで行われていることを、小説としてどう表せばいいのか。そこが一番悩みましたし、こだわりたかったところでした」
 

外村くんの奇跡の瞬間はきっと私にも、読者の方にも

「板鳥さんの〈この仕事に、正しいかどうかという基準はありません。正しいという言葉には気をつけたほうがいい〉という言葉は、〝正しい音ってどんなものですか?〞という私の質問に対して、調律師の方が実際におっしゃった言葉でした。他にも〝調律師になるために必要なものって何ですか?〞と伺ったら、〝根気です〞とおっしゃっる方がいたんです。そんなわけないでしょう、と一瞬思ったんです(笑)。でも、その方はきっと自分に必要なものを既に備えている、だから根気なんじゃないかな、と。そういった言葉を拾って小説の中に溶け込ませていくことで、調律師という人々の営みを少しでも表せたらと思いました」

 すると、不思議なことが起きた。

「調律師のお話だけど、小説という仕事と重なる部分も多いなぁとは感じていたんです。でも、本を出した後に、全く思いもしない職種の方に〝自分の仕事と重なる〞って言ってもらう機会が少なくなかったんですね。その道のプロとして最高の仕事を追求する、という面で、私の想像以上に開かれた小説になっていたんです。学生の方からの感想も多かったんですよ。〝自分の道はきっとどこかにあると信じられるようになりました〞って……。作家冥利に尽きますね」

 物語の終盤、3人の先輩調律師からアドバイスをもらうばかりだった外村が、自ら「調律とは何か?」について言葉を発するシーンがある。その先で、美しく豊かで、清々しい場所へと辿り着いたことが確信できる、素敵な一文が登場する。調律師が一音一音にこだわるように、作家が一語一語にこだわり磨き上げ、辿り着いたその一文を、冒頭から丁寧に読み進めていって出合ってほしい。そうすれば、読み手の心も清々しく調律されるから。

「最後に、奇跡の瞬間を描きたいと思っていました。でも、ファンタジーだとは感じない、もしかしたら現実で自分の身にも起こり得るかもしれない、というギリギリのところを探ったつもりです。振り返ってみて今思うのは、外村くんに起きている奇跡の瞬間って、私も36歳で初めて小説を書いた時に、自分の身にも起こったことじゃないのかな」

 この一作が特別な輝きを発し、多くの読者に受け入れられたのはきっと、必然だったのだ。

「もし本屋大賞が取れなかったとしても、読者の方に受け入れられていなかったとしても、私にとって本当に大切な小説です、と言い切れたと思うんです」

取材・文:吉田大助 写真:藤原江理奈