30年間現役、女子プロレスの最前線で活躍するアジャ・コングの原動力とは(前編)【プロレス特集番外編】

エンタメ

2018/8/19

ヒールレスラーとしていまも現役を貫き、女子プロレスの世界で闘い続けるアジャ・コングのロングインタビュー。前編では、プロレスラーを志した経緯、下積み時代の苦労と注目されるきっかけなどを訊いた。

※写真は【OZアカデミー】7月8日新宿大会「アジャ・コングvs米山香織」より

プロレスを「やりたい」ではなく「やらなきゃ」と思った

――プロレスラーになろうと思ったきっかけは何だったのでしょう。

アジャ 子供の頃から男子プロレスも女子プロレスも観ていて、ずっと大好きだったんですよね。中学生の時は、当時大人気だったクラッシュギャルズに私も夢中になって。でも「なろう」と思ったのは、中2の時に、近所でやっていた長与千種さんのシングルマッチを観たときです。それを観たら「やりたい」ではなくて「やらなきゃ」「私はこれをやるんだ」という感覚になった。それまではプロレスは観るものであってやるものではない。プロレスラーは選ばれた人だと思っていました。

――なぜその時は「やらなきゃ」と思われたのでしょう。

アジャ なぜでしょう……進学を考える時期というのもあったんでしょうね。それまで何のビジョンもなくて。部活でバレーボールをやっていたし、空手も習っていたんですけど、どうにかなるものでもないとわかっていましたから。それと、その時まではタッグのクラッシュを見られるだけで満足だったのが、シングルマッチである種きちんとしたプロレスを見られた。試合としておもしろいと思ったのは初めてでした。そういういろんな状況があって、「やらなきゃ」と思ったんでしょうね。でも帰って母親に「プロレスラーになります」って言ったら「いま観てきたからでしょう、はいはい」って流されましたけど(笑)。

――中学生のうちに全日本女子プロレス(全女)の入門テストを受けて、一発で受かったそうですね。

アジャ 親とは1回だけという約束だったので、受かってよかったです。やると決めてから本格的に自己流でトレーニングを始めたんですが、それと同時に一切学校の勉強をしなくなって(笑)。当然、成績も下がって、親も学校に呼ばれまして……。親からすると熱に浮かされただけだと思っていたのが、初めてこれはまずい本気だぞと。話し合って、1回だけ受ける、と決めました。その約束を果たしてしまったので、親も何も言えなかったみたいです。

メキシコ人選手に「ブラボー! 君たちはすばらしい」とレスラー人生で初めて褒められた

――クラッシュギャルズに憧れて全女に入ったのに、その対抗軸の、ダンプ松本選手率いるヒール軍団「極悪同盟」に入れられてしまい「泣いた」とおっしゃっていましたね。

アジャ そうなんですよ。今はヒールとかベビーフェイスとか、自分でどういう道に生きるかを決められるんですけれど。当時は断ったらプロレスラーの道は閉ざされるので。まだファンの感覚が残っているので、ダンプさんには敵対心しかないんですよ。完全に「プロレスラー」にはなりきっていなかった。15~16歳ですからね。泣いてどうにかなるもんじゃないんですけど、泣いてしまいました。

――新人時代はきついことが多かったのではないでしょうか?

アジャ 内部に入ると、思っていたのとは全く違って、リングを組むことから雑用まで全部自分たち新人がひきうける。リング上のことを一番に考えなければいけないのに、それ以外の作業が多くて、プロレスラーなのにもかかわらず、プロレスのことを考える時間がなくなった。お金も全然ありませんでしたね。その時期が3年くらい……「下積み」っていう時代です。ヒールに入れられた時点でやる気が一段階落ちていたし、当時はダンプさんが特別なのであって、悪役が目立つもんじゃないという時代だったので、じゃあ、ひっそりこっそりやってればいいかなと思っていたところもあります。とりあえずこの会社にいれば、プロレスラーを名乗っていられる。惰性でしかないですよね。当時、応援してくれていたお客さんには本当に申し訳ないと思います。

――ユニバーサル・プロレスリングに参戦したことで人気が出て、アジャさんの才能が開花するわけですが……転機というと、そこが思い浮かびますか?

アジャ それもそうなんですが、もう1つありまして。母親が脳内出血をおこして倒れたんですよ。何かあっても実家に帰ればなんとかなる、と思っていたのが、帰る場所がなくなった。それどころか、むしろ自分が母親の面倒をみなきゃいけなくなった。母一人子一人なので。とにかくお金を稼がなくてはと思いましたし、命はとりとめたけれど半身不随になった母が「お前が活躍する姿を見るまでは死ねない」と言うので、「なんとかしなきゃいけない」と思うようになりました。そんななかで、ユニバーサル出場の機会がまわってきて……という感じですね。

――ユニバーサルでは、最初、選手としてではなく、セコンドについていらしたそうですね。

アジャ そもそもユニバーサルに出る選手は、全女の試合には「いらない選手」たちなんですよ。ユニバーサルには失礼な話ですけどね。私はいらない組のなかでも試合にも出られずセコンドにつくという、さらにいらない選手でした。やる気もなかったですしね。それが、ワーワー声を出したり、相手チームの選手にちょっかいをだしたり、いつも通りのヒールとしてのセコンド業務をしていたら、男子プロレスしか観ていなかったお客さんにとっては新鮮にうつったみたいなんですよ。その時、私はモヒカンだったので「そこのモヒカン、お前は誰だ?」ってヤジが飛んで。そうしたら、たまたま私を知っていたお客さんが「アジャだ」って答えたんですよ。「アジャってなんだ」「アジャはアジャだ」っていうお客さんの掛け合いがすごく盛り上がってしまって。私からしたら「自分をネタに遊びやがって」って頭に来ていたんですけど、それを聞いた全女の人が、アジャを試合に出してみよう、と思ったらしく、次の日ユニバーサルで急遽、同期のバイソン木村との試合が組まれました。

――お客さんのヤジがきっかけだったんですね。

アジャ まあ組まれたからにはやるけど、どうせルチャ(ルチャ・リブレ。空中戦などが多い、メキシコのプロレス)を観たくて来ているお客さんだし、と楽な気持ちで試合をしたら、やることなすこと、全部が受けた。嬉しいというより、戸惑いましたね。全女でやっていることしかやっていないのに、と。全女ではヒールは声援を受けることはないので、初めてのことでした。控室に戻ったら、メキシコ人の選手の方たちが「ブラボーだ。君たちはすばらしい」と言ってくれて。「ダメだ」としか言われてこなかったのに、ところ変わればこんなにも褒められるんだと……そうすると人間気分も良くなるもので(笑)、次のユニバーサルではもうちょっとはりきってやってみようかと、努力するようになる。やったらやった分だけお客さんの反応が返ってくる。自分がおもしろいと思ったことをやれば、素直に受け取ってもらえるんだとわかって、初めてプロレスが楽しくなりました。

――「惰性」から脱却されたわけですね。

アジャ もっといろんなことをしてやろうと思うようになりました。ユニバーサルに出ることでルチャの動きを学ばせてもらえたのもよかったです。ただ一朝一夕にできるものではないので、こういう動きもあるんだなと思えただけですが。彼らの試合を観ているのもすごく楽しかったんですよ。一時はプロレスを観るのもつまらなくなって、一切観なくなっていたんですが、プロレス好きだった子供の頃に戻れたような気持ちになった。また、たくさん観るようになったんですが、今度は観るだけじゃなくてやれる立場になったわけだから、観たものは生かせるよね?と。それを試合で出したりしているうちに、ユニバーサルでついた男性のお客さんたちが、全女にも来てくれるようになったんですよ。全女の会場では、私とバイソン木村にだけ、お客さんから声援が飛ぶようになりました。そこからいい意味で調子に乗っていきました。

ブル中野さんがいなかったら、今の私のスタイルのもとはできていなかった

――ただ全女ではブル中野さんに「調子にのってんじゃねえ」と言われて、抗争に発展してしまうわけですが……。

アジャ そうですね。中野さんはヒールで初めて全女の象徴である「赤いベルト」(WWWA世界シングルベルト)を巻き、名実ともにトップに立たれていた。中野さんには付き人としてずっとかわいがっていただいていたんですよ。「自由にやっていいんだよ」と言ってくださっていたのに、そんなふうに言われるのが理解できなかった。でも今思うと、中野さんも立場が変わられていたんですよね。それまでは、自分のことだけ考えればよかったんです。でもトップに立ったらそうはいかない。選手をまとめないといけないわけで……そうなると誰かが突出してきたら抑えなきゃいけなくなるんです。今まで壁をぶち壊してきた中野さんが、守る側になってしまった。今の私にはそれが理解できますが、当時は不信感を持って、そこから2人の間に不協和音が流れて、あの試合が組まれることになりました。

――90年8月のブル中野、グリズリー岩本VSアジャ・コング、バイソン木村のタッグマッチですね。

アジャ はい。もともとヒール同士の戦いというのは、年に1回あったんですよ。血みどろになって、お互いの力量を確かめ合って、最後は仲間としての絆を深めてもう一段チームを大きくしていこう!というふうに終わっていた。でもあの時は、どんな状況で終わっても、絶対に頭をさげたり握手するのもやめよう、とバイソンと2人で決意してリングに上がりました。中野さんもそれはわかっていたと思います。今までにないような、ぐっちゃぐちゃの試合でした。それで終わった後に出てきた言葉が「ぶっ殺してやる」ですからね(笑)。

――中野さんが「殺してみろ」と答えて。でも、その後に中野さんが「お前がどれだけ成長したか、見せてみろ」とも言っていて……そこに愛情も感じたんですが。

アジャ そうですね。付き人は、24時間365日、先輩からいつ連絡がきてもいいように待機して、いかに快適に試合に出させるかということが仕事だったんですが、付かれたほうの先輩は、付き人を伸ばすことが使命だと思っているんですよ。付き人がうだつがあがらなければ、それは先輩の責任になる。中野さんはすごく厳しかったですが、口で言うだけではなくて、自分も一緒になってトレーニングをしてくださいましたし、アジャ・コングのメイクのアイデアもくださった。中野さんがいなかったら、今の私のスタイルのもとはできていなかったと思います。

(後編につづく)

取材・文:門倉紫麻 写真:江森康之