通夜に集まった人々を通して問いかける生きることの意味! 巧緻な語り口が独自の世界を構築する芥川賞受賞作

文芸・カルチャー

2016/3/10


『死んでいない者』(滝口悠生/文藝春秋)

滝口悠生氏は『愛と人生』(講談社)で第37回野間文芸新人賞を受賞、『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(新潮社)では第153回芥川賞にノミネートされ、そして、『死んでいない者』(文藝春秋)でついに154回芥川賞を受賞した新進気鋭の作家である。

著者の作品に共通するものは、曖昧模糊とした人間の記憶に切り込んでいく姿勢だ。人は過去を振り返る時、自らの記憶を用いてそれを再構成する。しかし、そこに浮かび上がるものは、自らの主観によって作り上げたつぎはぎだらけ創作物であって、決して現実そのものではない。過去を忘れまいといくら詳細な日記を書いたとしても、その言葉の隙間から大事なことも大事でないこともこぼれ落ちていき、虚構とすり替わっていく。そんな失われゆく現実の儚さに対して著者は自覚的だ。

『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』においては、楽器の音を頼りに過去の思い出を探っていくが、その中には現実であったのか疑わしい情景が混じり込んでいる。映画『男はつらいよ』の登場人物が27年ぶりに再会する『愛と人生』においても思い出はどこまでも不確かだ。そんな霧に覆われた世界をさ迷うが如き作風がテーマ性との一致をみてできあがった傑作が、本書『死んでいない者』である。

物語は、90歳を越えて大往生した男の通夜を行うところから始まる。男には5人の子供と10人の孫とひとりのひ孫がいて、その配偶者や彼の友人などを合わせ、30人近い人間がひとつ屋根の下に集まっている。彼らは身内同士ではあるが、互いにそれほど濃密な付き合いがあるわけでなく、かといって、まったく疎遠というわけでもない。微妙な距離感の中で大小さまざまな影響を与えあいながら人生を歩んでいる。そして、一同は故人の思い出話に花を咲かせながら自らの人生を振り返る。いくつかの小さな事件があり、いくつもの人生に対する感慨があり、それぞれの想いを胸に抱きながら夜は更けていく。

この作品にストーリーらしいストーリーは存在しない。通夜の様子を淡々と描きながら登場人物たちの胸の内を羅列していくだけである。しかも、視点が次々と変わっていき、それも、あまりに唐突なので、誰の目線で物語が語られているのか分からなくなってしまうほどだ。普通の作品ならば、その混乱ぶりは小説として失格の烙印を押されているだろう。しかし、本書ではこの分かりにくさが絶妙な効果を上げている。

この作品の軸となっているのは故人を中心とした不確かな過去の思い出である。しかし、それを語っている人々の描写も曖昧であるため、現在の時空もまた、過去の出来事にように霞がかかっているのだ。「死んでいない者」は「いずれ死にゆく者」と同義であり、悠久の時の前には生と死もわずかな誤差にすぎない。そう考えれば、登場人物はすでに全員亡くなっていて、本書は別の誰かの回想なのではないのか? そんなことを考えてしまう雰囲気すら漂わせている。その一方、すでに死んでいるはず者が突然、エピソードに割り込んでくるので、逆に彼らがまだ生きているような錯覚も同時に覚えてしまう。「死んでいない者」であるにもかかわらず、生者と同じ次元に配置することで生と死はコインの表裏にすぎないことを思い知らされる。

また、30人近くの登場人物の想いが、自我の境界をなくした如く混沌と描写されるさまは、一族の集合意識を描いているかのようだ。故人の家の離れに引きこもって暮らしている孫や身持ちを崩し、我が子を捨てて失踪した息子など、故人の一族は決して結束が固いわけでも同じ価値観を共有しているわけでもない。しかし、それでも彼らは、どうしようもなく影響を受け合って生きており、親族でなくては共有しえないものが確実にある。そんな空気を独自の形式で巧みに描写しているのだ。そして、それは、古い世代が亡くなり、新しい世代が誕生しても延々と繰り返されていくのだろうという一種の無常観につながっていく。

このように、著者の優れた技法は、小説空間の中で生と死、あるいは自己と他者の境界を曖昧にすることで、生きるとは何かという根源的な問いを読者に投げかけてくる。

前述したように、この作品にドラマチックな展開は一切ない。感情を揺さぶられるような物語を求めるなら他を当たった方がよいだろう。その代わりに、読者が自らの人生を見つめ直したくなるような示唆に富んでいるのだ。文学の新たなる可能性を示した味わい深い1冊である。

文=HM