青年期から波瀾万丈! 天下人・徳川家康が辞世の句に込めた、独自の死生観とは?

文芸・カルチャー

公開日:2023/2/11

徳川家康 弱者の戦略
徳川家康 弱者の戦略』(磯田道史/文藝春秋)

 松本潤主演の大河ドラマ『どうする家康』が好調だ。2023年1月の初回放送直後から、Twitterの世界トレンド1位を獲得したほか、毎回、放送と共にハッシュタグ「#どうする家康」がトレンド入りを果たすほど、視聴者の心を釘付けにしている。

 人気の理由には、天下人として知られる武将・徳川家康について、意外とよくわからないという人の興味関心をひきつけているのが大きいのではないだろうか。そんな家康の生涯をもっと知りたいと思う人に読んでほしい書籍がある。歴史学者・磯田道史氏による『徳川家康 弱者の戦略』(文藝春秋)だ。

 徳川幕府が「二百六十年隠してきた真実を暴く!」と豪語する本書。強者たちを相手にしながらも実は常に弱者だった家康が、のちになぜ天下人となったのか?を、著者の考察をはさみながら丁寧に解説している。

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故郷を追われ、故郷に戻った家康の青年期

 家康の人生は波瀾万丈だ。故郷である三河の勢力争いに巻き込まれた幼少期。1547年、家康は数え年でわずか6歳のときに、駿河の今川義元のもとへ人質に出された。ただ、多くの作品では「苦難の物語」として描かれるが、著者は「むしろ幸運だった」と考察する。

 当時、竹千代を名乗っていた家康は岡崎城主の跡取りとして期待されていた。しかし、父・松平広忠の領国経営は破綻の一途をたどり、すでに今川の援助でかろうじて存続している状態だったという。

 人質に取られて以降、武家の成人の儀式・元服の際には、今川義元から馬や鎧などをもらうほど、たいそうかわいがられていた家康。のちに、今川勢の先兵として織田信長軍と対峙した桶狭間の戦いの前哨戦で戦ったさなかでは「今川義元が討ち取られてしまった、との報せ」を受けることになる。

 今川軍の敗北により尾張から故郷の三河へとたどり着いた家康は、家臣たちの必死の要請により、生まれ育った岡崎城で領土回復作戦に乗り出す。実は、この過程では織田側に拉致された事件もあったが、著者の言う家康の「巻き込まれ人生」を彷彿とさせる。

辞世の句に表れていた家康独自の死生観

 家康を表す「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」という有名な句がある。寛容で忍耐強い家康の性格をよく表したものとして知られるが、自身が詠んだ辞世の句には彼の人間性、死生観が浮かんでくる。

 本書で紹介しているのは「嬉しやと 再び覚めて一眠り 浮世の夢は暁の空」の一句だ。この句には「目が再び覚めて、またひと眠りする。現世で見た夢は夜明けの空で、また日が昇ってくる。つまり、自分は消えることはない」という意味が込められており、表現されているのは「死んでもまた再生する世界観」だと著者は解説する。

 また、家康は「先に行く あとに残るも同じこと 連れていけぬを別れぞと思ふ」という一句も残している。この句は「死後に残された人にポイント」を置いていて、「自分がいなくなっても徳川の世を続けよ」とするメッセージを伝えているという。

 家康は死後、自身の遺志により静岡の久能山という断崖絶壁に遺体を埋葬させた。静岡県駿河市の久能山東照宮から、今なおそこから現代の日本を見守っているのかもしれない。

 さて、本書によると徳川幕府は「二百六十年」にもわたり続いた。戦乱の世を生き抜き、天下を取った家康の生きざまは、令和を生きる私たちに何を教えてくれるだろうか。大河ドラマとあわせて楽しんでほしい。

文=青山悠

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