富雄丸山古墳の発見で古代史ファン大興奮! 今熱い注目を集める4世紀の日本はどんな時代だったのか?

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公開日:2023/2/20

新版 古代史の基礎知識』(吉村武彦/KADOKAWA)
データサイエンスが解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない』(安本美典/朝日新聞出版)

 2023年1月25日、奈良県の富雄丸山古墳で2メートルにも及ぶ剣と盾形の銅鏡が出土して大きく報道された。この古墳は4世紀後半のものだという。

 ものすごく簡単にまとめると、西暦300年代後半の偉い人の墓から、すごいものが見つかったということ。出土した剣と銅鏡が、どこでどんな集団がどこの材料をどう持ってきて作ったのかはこれから研究が始まる。

 4世紀、つまり300年代の日本はどんな時代だったか。報道に興奮したため、押し入れの奥で眠っていた歴史の教科書や関連する書籍を開いてみた。

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 この時代は、古墳時代つまり前方後円墳が近畿から広まったヤマト政権の時代。中央集権国家の黎明期とされている時代だ。もう少し具体的にいうなら、崇神(すじん)天皇から神功(じんぐう)皇后くらいまでの時代となる。学者によって天皇名の前後については諸説あるようだが、前方後円墳体制の始まりが崇神天皇だというのはほぼ確定らしい。

 そしてここからが個人的に衝撃的だったのだが、ヤマト政権の始まりについて昔と今とではその常識がかなり変わっていたこと。かつて(1979年生まれの筆者が学生だった頃)は、300年代(4世紀)に入ると前方後円墳が出現して近畿にヤマト政権が出現、と教わった。だがこれはもう古い説。今の教科書では、古墳時代の始まりは250年頃(3世紀中頃)からとされている。つまり、半世紀早くなっていたのだ。考古学の分野で科学的な年代測定法が用いられるようになり、歴史が改められたようである。

 そこで、令和2年出版の『新版 古代史の基礎知識』(吉村武彦/KADOKAWA)から現在の知識を学び直してみた。以下は本書からの内容だ。

古墳時代は、250年頃、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡と箸墓(はしはか)古墳の誕生から始まる。この古墳は前方後円墳の初期のもので、全国に同型の古墳が広がる際のモデル型。ヤマト王権の広がりを考える上でも、弥生時代から古墳時代への時代区分の境目としても重大な意味を持つ遺跡となる。なお、『日本書紀』には、この地域に第10代崇神天皇・11代垂仁(すいにん)天皇・12代景行(けいこう)天皇の宮があったことが記されている。

 とのこと。かつては300年頃にできたと考えられていた前方後円墳体制のはじまりとなる「纏向・箸墓」が、250年前後のものだったというわけだ。

 しかしである。そうすると、250年頃が崇神天皇の時代ということになるわけで、崇神天皇と邪馬台国の時代が重なってしまうのではないだろうか? かつては、ヤマト政権の前に邪馬台国の時代があったと習ったのだが、今はこちらも違ってきているということなのだろうか。

「239年に卑弥呼が魏に使いを送り「親魏倭王」の称号を得る、248年に卑弥呼が死ぬ、男王が立つが乱れたので13歳の台与が立つ、台与は266年に晋に遣使朝貢」という『魏志倭人伝』などの記述はどうなるのか……。また、鏡などの出土物への理解も、かつてとは随分変化しているのだろう。

 せっかくなので邪馬台国論争のことにも触れておこう。今日では邪馬台国は畿内にあったという説が確定レベルとされるほど有力だ。だがかつては、その所在地を巡って「近畿vs.北九州」の熱い論戦が展開されていた。若い方はご存じないかもしれないが、それはそれは大変熱いバトルだったのである。

 論戦の大元は、『魏志倭人伝』の記述では邪馬台国の場所が特定できないことにある。そこで、方位の誤記や距離の誤認を疑い、様々な場所が候補地に挙がった。中でも近畿と北九州が2大候補地であり、そこに邪馬台国がヤマト政権に繋がる権力かどうかを含め、長年議論が続いたのだ。

 この論争、現在では決着がついたような扱われ方もされているが、それでも北九州説を唱える学者は健在だ。例えば、2021年出版の『データサイエンスが解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない』(安本美典/朝日新聞出版)では、確率論や、中国産とされる鏡を国産と疑うことから、北九州説を説いていて興味深い。

 畿内説で確定なのではという考えの方には怒られそうだが、邪馬台国論争も4世紀頃の日本の歴史も、まだ「確定」「優勢」「ほぼ決定」と決着をつけるには早いような気がする。古代史ミステリーを楽しんでいる素人としては、不確定な歴史というものがとても面白いのである。この度見つかった剣と銅鏡についても、不確定であればこそ、妄想の膨らましがいがあるというものだ。

文=奥みんす

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