家族でも分かり合えない。分かり合えなくても、愛する。西加奈子が描く「偽りのない家族」の物語『さくら』

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/4

さくら
さくら』(西加奈子/小学館)

“僕の手には今、一枚の広告がある。
色の褪せたバナナの、陰鬱な黄色。折りたたみ自転車の、なんだか胡散臭いブルー。そして何かの肉の、その嫌らしい赤と、脂肪の濁った白。”

 西加奈子氏による小説『さくら』(小学館)を読みはじめた時、冒頭の表現にガツンとやられた。著者ならではの持ち味である独特の色彩感覚と多彩な情景描写は、デビュー初期の本書においても遺憾なく発揮されている。

 冒頭に登場する「広告」の裏にしたためられた短い手紙が、この物語の起点となる。

“「年末、家に帰ります。 おとうさん」”

 本書の主人公である長谷川薫の父は、ある日突如失踪して以来、音信不通だった。そんな父からの手紙を読み、薫は実家への帰省を決意する。父と母、兄ちゃんと妹のミキ、そして犬のサクラ。3人兄弟の真ん中に生まれた薫の視点と回想を通して、5人と1匹の家族の物語が紡がれる。

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 誰からも愛される人気者の兄ちゃん、平凡で穏やかな性格の薫、気性の激しいミキ。愛し合う父と母のもと、すくすくと育つ彼らの幼少期の描写は、平和な香りで満ちている。中でも、幼いミキに対して母がストレートに放つ言葉が、長谷川家の温かな空気を象徴しているように思う。

“お母さんがお父さんのこと好きで、お父さんがお母さんのこと好きで、魔法を出し合った、そのときから、ミキやのよ。”

 命の不思議を我が子に問われた時、子どもの側が絶対的な幸福感と安らぎを得られる言葉が、他にあるだろうか。

 性教育において、親が子どもに教えるべきことは山のようにある。だが、何よりも大事なのは、こういう想いを照れずにまっすぐ伝えることなのかもしれない。

 こんなに穏やかな家族なのに、なぜ父は失踪したのか。それは、“兄ちゃん”が事故に遭い、重い障害を負ったことに端を発する。兄ちゃんの整った容姿は事故によりひどく損傷し、身体には麻痺が残り、会話さえままならない状態となった。己の身に降りかかった現実を受け入れられない兄ちゃんは、次第に家族に辛く当たるようになる。

 事故後、兄ちゃんが辿々しくも絞り出した言葉は、あまりにも悲しくて、やりきれなくて、読み手の心に容赦なく爪を立てる。

“神様、ちょっと、悪送球やって。打たれへん、ボールを、投げてくる”

 これまでは直球しか投げてこなかった神様が、急に悪送球になった。兄ちゃんは、そう言って涙ながらに繰り返した。

“打たれへん。”

 順風満帆だった人生の歯車が狂い出す瞬間、人は誰しもこのような感覚に陥るのではないだろうか。障害を抱えて生きる者の葛藤と絶望は、周囲の想像をはるかに超える。まして、これまで「できていたこと」ができなくなった喪失感は、圧倒的な孤独と焦りを連れてくる。“打たれへん”ボールを見送る兄ちゃんの心は、毎日少しずつ削られていった。その果てに、兄ちゃんはある決断をする。

 兄ちゃんが事故を起こした背景には、とある人物がついた嘘と、悲しいほどに純粋な恋があった。その秘密に気付いた父は、自分の胸だけにそれを抱え、秘密ごと家から持ち出し、失踪へと至ったのである。

 誰かが誰かを想う時、必ずしもその気持ちが幸福をもたらすわけじゃない。叶わぬ恋は人を追い詰め、時に判断を狂わせる。全ての人の恋が叶うなら、どんなにいいかと思う。しかし、現実でもフィクションでも、そんな世界は存在しない。

 絶望と希望が同居する家族の物語は、感情をジェットコースターのように揺さぶられる。それと同時に、長谷川家を見守る愛犬サクラの声が、読後に優しい余韻をもたらす。

 サクラが長谷川家の一員になったのは、桜舞う春の日だった。先日、満開を迎えたソメイヨシノを見上げながら、この物語を読み返しつつ、自身の家族の今を想った。賢く明るいサクラと、まっすぐで人間臭い長谷川家の人々に出会うたび、人を愛する尊さを思い知る。来年の今頃も、私はきっと本書に手を伸ばすだろう。日常に紛れて忘れてしまいがちな大切なものを、思い出すために。

文=碧月はる

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