ヨシタケシンスケ初の長編絵本『メメンとモリ』は、「人生は自分次第」と思える1冊

文芸・カルチャー

公開日:2023/6/9

メメンとモリ
メメンとモリ』(ヨシタケシンスケ/KADOKAWA)

 メメント・モリ。それは「死を想え」という意味のラテン語で、小説やマンガなどのフィクションだけでなく、絵画などさまざまな芸術作品のモチーフとされてきた。日常に近接している死を意識することは、どちらかといえば仄暗いイメージで語られがちで、あるいは、一日一日を大切に生きよというような警句として扱われることが多い。けれどヨシタケシンスケさんの『メメンとモリ』(KADOKAWA)はちょっと違う。メメンという少女とモリという少年(おそらく姉弟)の日常を通じて、人生とはとらえどころがなく儚いものだからこそ、自分次第でどう転じることもできる可能性に満ちていると思える1冊だった。

 たとえばメメンがつくったお皿を割ってしまったモリに彼女は言う。

「ずっとそこにある」ってことよりも、「いっしょに何かをした」ってことのほうが大事じゃない?

メメンとモリ

わたしたちだって、ずーっとここにいるわけじゃないでしょう?
いつかはおとなになって、おとしよりになって、そしていつかは、天国にいく

メメンとモリ

 この文章だけでじーんとしてしまう。

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 そうなのだ。私たちはつい目の前の結果に一喜一憂して、自分や他人を責めたり羨ましがったりしてしまう。もちろんどんな結果を導き出すかはとても大事なことなのだけど、つらいとき前に進む力となってくれるのは、過去に自分が何を成し遂げたかよりも、その場所に辿りつくために何をしたか、誰と出会ってどんな言葉をかわし、どういう瞬間に救われたかという過程の記憶だ。その瞬間は無駄だと思えたことも、のちのちものすごく役に立つこともあるし、必要だと思っていたことが実は無駄だったということもある。もちろん、無駄なことはやっぱり無駄だったと、苦笑してしまうようなことも。でも、そのすべてをひっくるめてこそ、人生は豊かになっていくのではないだろうか。

 なんてことをメメンが示唆しているように思えてくる。気を取り直してモリと再びお皿をつくって、楽しい時間を新たに過ごす。……しかし、そこで終わらないのが、ヨシタケさんの素敵なところ。次の瞬間、モリはまた転んで、できたばかりのお皿を割る。メメンは「なんだこいつ」というような顔をしてそのさまを見る。その、どこも成長していない感じが、すごくいい。

 私たちは成長するために生きているわけじゃない。何かの役に立つために生まれたわけでもない。ただ、そこにいる。こんな自分にいったいどんな意味があるんだろう、とときに落ちこみながらも、手を取り合える誰かを見つけて、自分のしてほしかったことを誰かにしてあげたりして、結果的になんの意味もないかもしれない喜びを瞬間的に得る。その瞬間を積み重ねて積み重ねて私たちは死に向かっていくのである。

 メメンはこうも言う。

つまり人は、「思ってたのとちがう!」ってびっくりするために生きてるのよ。
思ってたのとちがうから、世界はつらいし、きびしいし、たのしいし、うつくしい。

 と。

 それは、日常の些細な瞬間に何百通りもの「なんで?」と「もしかしたら」を見出して、小さな一歩を巨大な経験に変えてきたヨシタケさんだからこそ書ける言葉じゃないだろうか。

文=立花もも

ヨシタケシンスケさんのメッセージやオリジナル動画など特設サイトにて公開中! https://yomeruba.com/feature/ehon/yoshitake-shinsuke/mementomori.html

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