「私の人生はとてもクソでした」が、全てを失った女性の人生を救った。遊園地の従業員の生き様を描いた『ほたるいしマジカルランド』

文芸・カルチャー

公開日:2023/8/4

ほたるいしマジカルランド
ほたるいしマジカルランド』(寺地はるな/ポプラ社)

「仕事」に対する捉え方は、人によってさまざまだ。仕事を「生きがい」と言う人もいれば、「生きるため」と割り切って仕事に向き合う人もいる。どちらが良いも悪いもないはずなのに、なぜか前者だけが持て囃され、後者を「消極的な生き方」と揶揄する風潮が強いように思う。寺地はるな氏による小説『ほたるいしマジカルランド』(ポプラ社)は、そんな社会の風潮に居心地の悪さを感じている人々に、涼やかな風を運んでくれる。

 本書は、遊園地「ほたるいしマジカルランド」で働く従業員6人に焦点を当て、章ごとに各人物の生き様を描いた連作短編集である。物語の序章、遊園地の社長が入院したのを機に、後継者問題やリストラを懸念した噂話が社内に飛び交いはじめる。社長は、インパクトの強いキャラを活かして自らCMにも出演していた。それほどの存在感を放つ社長が体調を崩したとなれば、社内がざわつくのも無理はない。加えて、社長の入院と同時期に、園内を謎の人物がうろつきはじめる。すべての章において登場するこの人物は、物語のキーパーソンといえよう。

 それぞれまったく違う個性を持つ登場人物たちの生き様は、等身大でリアリティがある。誰もが身に覚えのある挫折の数々や、人知れず抱えるコンプレックス。それらに伴う感情の起伏が、誠実な筆致で綴られている。

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 私が特に心に残ったのは、「水曜日 篠塚八重子」の章だった。清掃スタッフとして勤める八重子の仕事ぶりは、社長も認めるほどの完璧さを誇る。だが、当の八重子自身は自分の存在価値を見出せず、過去の過ちに囚われていた。

 八重子には、別れた夫との間に授かった息子がいた。息子の大翔は、繊細で引っ込み思案な子どもであった。そのため、幼稚園での集団生活に大きなストレスを感じることが多かった。集団に馴染めない息子の姿を見るたび、元夫は「母親である八重子の育て方のせい」だと罵った。

 こういう事象は、子育てにおいてさして珍しいものではない。子どもの問題はすべて「母親の責任」と信じて疑わない人たちは、一定数存在する。二人の子どもであるはずなのに、子どもの発達において「父親の責任」が問われないことは存外多い。八重子の元夫のように、父親本人がその責務に無自覚な場合、母親だけが多大な重圧とストレスを背負う羽目になる。八重子は、その重すぎる負荷に耐えられなかった。結果、八重子は怪しげなネットワークビジネスとアルコールに逃げ場を求めてしまう。それが破滅への一歩であると知りながらも、すがらずにはいられなかった彼女の心境を思うと、あまりにもやりきれない。

 アルコールに依存して生活が破綻した八重子は、元夫に離婚を突きつけられる。息子の親権のみならず、息子に会う権利さえ奪われた八重子は、己を許せず後悔を背負い続けていた。そんなある日、行きつけの食堂の店主と交わした会話をきっかけに、彼女の中に変化が起こる。

“「私の人生はとてもクソでした」”

 店主はこの言葉に次いで、こう続けた。

“「けど、それは今日や明日を投げ出す理由にはならない。目の前のことをやるしかないんやって、そうすることでしか自信はつかへんらしいよって、うちによく来るお客さんが言うてました」”

 店主が八重子に手渡した言葉は、とてもシンプルなものだった。だからこそ、いつまでも胸に残って離れなかった。それまでの人生がどれほど「クソ」だったとしても、明日も明後日もクソみたいな日々が続くとは限らないし、目の前のことに取り組むうちに見えてくる景色もある。そう信じて生きてきたすべての人にとって、店主の言葉は“希望”だと思った。少なくとも私は、そう感じた。

“仕事はいい。手を動かすことはいい。なにかを許されているような気になる。”

 八重子の言葉だ。こういう心持ちで、手を抜かず実直に働く。これも立派な生き方の一つだ。他の登場人物たちも、「仕事」を「生きる糧」としている人が多い。それは決して恥ずべきことじゃない。どんなにやりがいのある仕事でも、「楽しいだけ」の仕事なんて存在しない。みな、何かしらに折り合いをつけながら働いているし、生きている。

 本書に登場する人物たちは、総じて人間くさい。弱くて、狡くて、臆病で、そのくせプライドは高い。だが、そこがいい。日頃必死に「見せないようにしている」部分を見せてくれる彼らの存在が、私たちの「弱さ」を肯定してくれる。読めば、少し自分のことを好きになれる。そんな物語に出会えた夜、私の口角はいつもより上がっていた。

文=碧月はる

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