“刑事の母”を持つ娘と“新聞記者の娘”を持つ母。親子が繰り広げる推理と情報の心理戦を描いた短編集『球形の囁き』

文芸・カルチャー

公開日:2023/8/29

球形の囁き
球形の囁き』(長岡弘樹/双葉社)

 身近な誰かが“犯罪者”になる。私たちは、その可能性を普段あまり考えない。だが、殺人を含めたあらゆる犯罪において、加害者となるか否かの境界線を越えるハードルは、実はそんなに高くない。それが、顔見知りによる怨恨の場合であれ、偶発的な事故であれ。私たちは、案外容易に “加害者”の側になり得る。長岡弘樹氏によるミステリー作品『球形の囁き』(双葉社)を読んで、その感覚がたしかなものとして迫ってきた。

 本作は、45万部超の著者のヒット作『傍聞き』の表題作である短編小説「傍聞き」で主人公だった啓子と菜月が主人公に据えられている。シングルマザーの啓子と一人娘の菜月。本書では、高校生となった菜月が、やがて長年の夢であった新聞記者になるまでの成長過程を垣間見ることができる。母親の啓子は刑事で、殺人事件の捜査に携わる多忙な日々を送っていた。家庭内で繰り広げられる推理の攻防に息を呑む短編集は、章ごとに数々の難事件が登場する。

 個人的には「落ちた焦点」の章が特に忘れ難い。啓子と新人刑事の美樹本が事件解決に奔走し、早い段階で犯人らしき男性を見つけ出すのだが、さまざまな要因が重なった結果、その男は無罪を言い渡される。無罪となった判決に対し検察が控訴しなければ、一事不再理の原則で、同じ人を二度と同じ罪で裁くことはできない。だが、検察が不起訴を決めた直後、容疑者として審理されていた男性が自殺を図った。娘の菜月は、この件を「自殺ではない」と見立てて母親に推論を述べる。

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 菜月が述べる推論は、淀みがなかった。菜月がそれほどまでに確信を持って話せたのには、理由がある。その理由が明らかになった瞬間、胸に流れ込んできたのは深い悲しみと諦めだった。人は、必ずしも憎しみや恨みの感情だけで人を殺すわけじゃない。本来「犯罪」とは真逆にあるはずの「正義」が、人の足を掬うこともある。加害者を断罪するのは容易いが、事件の全容を知れば責める気になれない犯罪は、日々至るところで起きている。

“自分のミスを帳消しにするためではなく、正しいことを貫くために、彼は犯罪に手を染めてしまったのだと思う。”

 何かを壊すためではなく、何かを守るために過ちを犯した人が裁かれる。その一方で、裁かれるべき人が裁かれない。これはフィクションのみならず、現実世界でも繰り返されているアンフェアな現象である。

「推定無罪」を重んじる日本において、犯人を有罪にするためには確たる証拠が必要となる。これは冤罪を未然に防ぐために有効な手段であり、法のあり方として間違っているとは思えない。だが、一事不再理の原則は、のちに重要な証拠が出てきた場合においても犯人を取り逃してしまう可能性を秘めている。法は本来、人を守るためのものだ。だが、そこには数多くの穴がある。

 どの事件も総じて読み応えがあるが、啓子の推理力と観察眼の鋭さは全章において抜きん出ていた。一方、成長過程にある菜月は、章を重ねるごとに物事を見抜く力が長けていく。「刑事の母を持つ娘」「新聞記者の娘を持つ母」の心情が丁寧に描かれている本書は、一つひとつの事件を通して、人間の心の複雑さと単純さを両面から突きつけてくる。

 大抵の場合、さまざまな“偶然”が重なった結果、悲劇が起こる。偶然が呼ぶものが幸福だけであればいいのに。そう願う一方で、人間はそんなにきれいな生き物ではない、とも思う。

 罪を犯した者を敏腕刑事が追い詰めて、スカッと事件を解決する。本書は、そんな単純な物語ではない。だからこそ、伝えられるものがある。どの被害者も、加害者も、誰かとつながって生きている一人の人間である以上、「後味がいい」事件なんて本来一つもない。そんな当たり前のことを、私たちはつい忘れてしまう。本書を読み終えたあとに抱いた後味の悪さと、人間の不確かさを覚えておこうと思った。私自身も、そんな“不確かな人間”の一人なのだから。

文=碧月はる

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