綾野剛主演で映画化『花腐(くた)し』。花を腐らせるじっとり降りしきる雨の中の、湿度の高い男女を描いた作品

文芸・カルチャー

更新日:2023/9/21

幽 花腐し
幽 花腐し』(松浦寿輝/講談社)

 2000年に芥川賞を受賞した『花腐(くた)し』(松浦寿輝/講談社)が映画化され、11月10日(金)から全国公開となります。メインキャストは綾野剛、柄本佑、さとうほなみ。原作と映画でやや設定が異なる部分がありますが、本稿では主に小説のほうを紹介できればと思います。

 舞台は新宿・大久保。雨宿りをしながら、40代半ばの男性・栩谷(くたに)の脳裏に、十数年前の記憶がフラッシュバックする場面から物語は始まります。栩谷が思い出したのは、2年ほど同棲した祥子という女性との、ある雨の日のやりとり。大きめの傘を差しているにもかかわらず、なぜか肩も背中もずぶ濡れになってしまう栩谷に対して、祥子が「どうしてそんなふうになるのかわからない」と呆れるというやりとりです。

「傘の差し方もろくに知らないままこの年齢になってしまった」と自覚する栩谷は、友人と立ち上げたデザイン事務所の経営が行き詰まり倒産に追い込まれ、借金をしている知り合いからの依頼で大久保のぼろアパートに恫喝をしに行く道中で、雨宿りをしながらそんな思い出に浸っていました。

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 栩谷が請け負ったのは、他の住人が全て転居したのになぜか退去をしないし家賃も払わない、伊関という30代の男に話をつけるという任務です。物語は、栩谷と伊関のやりとりを中心に構成されています。他の派遣者が失敗したにもかかわらず、なぜか栩谷は伊関の懐に飛び込むことに成功します。そして、こんなやりとりをし始めます。

しばらく黙って二人は煙草を吹かしていたが、やがて伊関が、
「卯の花腐(くた)し……」と呟いた。
「何?」
「ウツギの花も腐らせるってね。さみだれっていうか、今日みたいな雨のことを言うんだろう。春されば卯の花腐し……って、万葉集にさ」
「へえ、そうかね。あんたは妙なことを知ってるね」

 昔の歌人が詠んだ歌が万葉集によって読めて、その歌の醸し出す情緒に今でも浸れると、柄にもなくロマンチックなことを語る伊関。そしてしだいに栩谷が「自分もこのアパートに居付いてしまおうか」という気持ちすら起こしてしまうように、不思議な夜が深まっていきます。

 この物語の軸になっているのは、祥子という女性が入水自殺をしてもうこの世にはいないという、変えようのない事実です。確かに自分の目の前にかつていた人がもうこの世にはいないけれども、その人と過ごした時間や出来事については頭の中で確かに思い返せる。その尊さと虚しさが、昔の記憶まで蒸し返そうとしているようなジトッとした雨の中でごちゃ混ぜになっていきます。

そのときどういう記憶の仕掛けが働いたのか、紀伊國屋のずっと上の方の階の人影がまばらな専門書の書架の前で、大学のサークルの一学年下の後輩で顔ぐらいは見知っていたが二人きりではほとんど口をきいたことさえなかった祥子とばったり出喰わしたこれもやはり雨の午後の、べたべたと肌にまとわりつくような生暖かい空気の感触がいきなり蘇ってきた。

 映画では栩谷が「廃れていくピンク映画業界で生きる映画監督」、伊関が「脚本家志望だった男」、そして祥子は「2人が愛した1人の女優」ということで、設定がやや変わって栩谷と伊関の間の共通項が増えているようですが、芥川賞受賞第1作の書き下ろし『ひたひたと』も収録されている原作の文庫を映画鑑賞前に手にとってみてはいかがでしょうか。

文=神保慶政

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