声の出せないダウン症の息子に救われた話。事業の危機、妻への八つ当たり、絶望的な自己嫌悪から立ち上がれた父と家族の物語

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更新日:2023/12/12

お父さん、気づいたね!声を失くしたダウン症の息子から教わったこと
お父さん、気づいたね!声を失くしたダウン症の息子から教わったこと』(田中伸一/地湧社)

 生まれてくる我が子に対し、大抵の親は「健康でありますように」と願う。だが、その願いは必ずしも叶えられるわけではない。何らかの障がいや病気を抱え、生きることそのものが困難な状態で生まれてくる命もある。そのような症例を聞くと、多くの人は対象者を「可哀想な子」と決めつけがちだ。しかし、田中伸一氏によるノンフィクション『お父さん、気づいたね!声を失くしたダウン症の息子から教わったこと』(地湧社)を読めば、その印象はおそらく一変するだろう。

 著者の息子・彰悟くんは、ダウン症として生まれた。生後42日目にしてようやく退院できたのも束の間、その後すぐに肺炎を起こし、再入院。気道確保のため、口から気管の奥まで管を挿管したため、声帯が塞がれ声さえも出せない日々が続いた。著者夫妻は専門の病院を渡り歩き、八方手を尽くしたが、彰悟くんの“声”が戻ることはなかった。本書には、彰悟くんの生後から成人までの長い道のりと、ご家族の奮闘、著者がぶつかった壁、その先で出会った新たな発見が丁寧な筆致で綴られている。

 身体障がい児であり、最重度の知的障がい児でもある彰悟くんの介護は、すべて著者の妻に委ねられた。気道や肺を加湿するため、吸入器で生理食塩水の噴霧をし、その後、痰の吸引を行う。噴霧は1日に4~5回、痰の吸引は日中帯、1時間おきに繰り返す。医療器具の洗浄、消毒、毎週の通院を、オムツ交換などの通常の育児や家事と並行してこなすのは、並大抵のことではない。夜間帯も気が休まる暇はなく、著者の妻は満足な睡眠も休養も取れない日々が長く続いた。

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 彰悟くんの通院や今後の療育に適した環境を整えるため、著者夫妻はマイホームの建築を決意する。また、それだけにとどまらず、著者は転職を経て独立への道を歩みはじめた。すべては、彰悟くんとの時間を確保するため。しかし、独立後まもなくリーマンショックの波が押し寄せ、著者はあっという間に経済的苦境に追い込まれてしまう。

 家族のため、我が子のためにと必死に走ってきたはずなのに、なぜこんなことになってしまったのだろう。そんなやりきれなさを抱え、焦燥を妻にぶつけては自己嫌悪に苛まれる日々。妻に内緒で子どもの学資保険を担保にお金を借りて、売上と偽って、妻に生活費を渡す。絶望に近い感情を抱き、お金もやる気も削り取られていく毎日は、著者にとってこの上なく辛い期間だったに違いない。しかし、そのタイミングで著者はある本に出会う。結果的に、その本との出会いが転機となり、著者はさまざまな“気づき”を得るに至る。その“気づき”は、息子の彰悟くんの存在と深く結びついていた。

“そもそも私は、介護は妻の役割で、仕事をするのが私の役割だと思っていた。”

“私の人生の目的は、仕事での成果、出世、お金、そして人から「すごい」と認められることだった。”

 深い悔恨と共に綴られたこれらの一文の後、著者は明確な意志を持って次の言葉を綴っている。

“自分が変わろう。”

 著者が出会ったのは、野口嘉則氏による『3つの真実』という本だった。そこには、「感謝すること」の大切さが綴られていた。著者はこれまでの自分と我が子との関わりを振り返り、己に足りないものをひもといていく。その後、著者は彰悟くんの姉である美有さんと交換日記をはじめた。娘とのコミュニケーションを通して、著者はさらに多くの発見と学びを得る。すると不思議なことに、会社の売上も徐々に伸びはじめた。

 起きたこと、変えられない事実、受け入れ難い現実。人生において、思わず目を背けたくなる事象は存外多い。しかし、それらをあるがまま受け入れ、「今あるもの」に感謝をする。そういう心持ちを誰もがすぐに体得できるわけではないが、そのようにあろうと努力することはできる。本書にはそのためのヒントと、人の命の底力が力強く描かれている。

 著者は今、彰悟くんのことを「可哀想」だとは微塵も思っていない。息子との出会いに感謝し、会話ができないぶん心に寄り添い、娘や妻に対しても深い愛情と感謝を示している。愛情や感謝は、抱いているだけでは伝わらない。著者はそれを知っていて、きちんと言葉にしている。「ありがとう」の5文字があふれんばかりに綴られた本書は、著者から家族へのラブレターのようでもあり、社会に向けた感謝状のようでもある。彰悟くんは、障がいの特性ゆえ、文章や言葉を理解するのが難しい。それでも、本書に綴られた著者のたくさんの「ありがとう」は、きっと彰悟くんに届いている。

文=碧月はる

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