絶海の孤島で6人死亡しビデオテープだけが残った…最後の一行まで読み飛ばせない 詠坂雄二著『T島事件』

文芸・カルチャー

2017/10/21

『T島事件 絶海の孤島でなぜ六人は死亡したのか』(詠坂雄二/光文社)

 推理小説とは作者と読者の知恵比べだといわれる。解決篇を待たずして真相に辿り着けば、読者は作者に勝ったといえるだろう。そのために読者はページの隅々にまで目をこらし、矛盾や不審点を探し出そうとする。優れた推理小説ほど、読者が気づかなかった違和感をつなぎ合わせて、鮮やかに事件を解決する探偵が神がかって見えるはずだ。しかし、こういう考え方もできる。「推理小説とは作者の描き方次第で、何の変哲もない事件さえもドラマティックに見せられる」と。

『T島事件 絶海の孤島でなぜ六人は死亡したのか』(詠坂雄二/光文社)は推理小説の構造そのものに新たな視点を投げかける問題作だ。「事件性が認められない」事件に対し、探偵はどのような真相に辿り着くのか、そして、本作が本当に提示している謎は何だったのか、読者は最後まで釘付けになるだろう。

 悲劇は2005年、フェイクドキュメンタリー映画の撮影で、無人島に渡った6人のスタッフに降りかかった。警察は事件性なしと判断し、捜査はすぐに打ち切られる。死亡現場に不審点がなかったこともあるが、何よりも6人の行動の一部始終がカメラに収められていたからだ。かくして、不幸な出来事は「事件」となる前に、人々の記憶から忘れ去られようとしていた。

 しかし、映画のプロデューサー・瓶子は納得せず、探偵社「月島企画」に映像の真偽を調べてほしいと依頼する。彼は残された映像を作品としてまとめ、世に発表したいと考えていた。世間の目にさらす以上、映像が信用に足るものかどうかの確認は必須だった。そこで、名探偵としての評価を確立していた月島凪の意見が求められたのだ。

 別事件の調査に夢中な凪にかわって、雇われ助手の青年、荻田が膨大なビデオテープを再生していく。映像の中には死の瞬間も捉えられており、何者かが後から加工した痕跡もない。映像に映った死体も間違いなく本物だ。これだけの条件がそろっているにもかかわらず、電話で報告を受けた凪は、意外な真犯人の名前を口にする―。

 絶海の孤島で人が次々に死んでいく設定は、アガサ・クリスティーの名作『そして誰もいなくなった』を思わせる。恐怖とスリルにゾクゾクするような展開を、読者は期待せずにいられない。しかし、物語が進むにつれ肩透かしを覚える人は少なくないだろう。確かに、6人もの人間が死んでしまうのはおぞましいが、推理小説の中では特に異様な描写でもない。荻田たちが懸命に続ける捜査や仮説も、読者の想像を超えてはこない。

 満を持して登場した凪に読者は期待をかける。一体どれほど意外な真実を言い当ててくれるのかと。しかし、解決篇は決して稚拙ではないものの、凡庸の域を出ないだろう。目の肥えた推理小説ファンが読んでも満足しないのではないだろうか。

 ただし、それで本作を「平均的な推理小説」と品定めするのは早い。なぜなら、真の結末は解決篇の先にこそ待ち構えているからだ。最後の一行で判明する全ての答えは、推理小説というジャンルそのものを揺るがすほどのインパクトを残すだろう。そして、本作に対する印象が180度豹変するはずだ。

 推理小説に親しんだ読者ほど、作者は「騙まし討ち」をしかけてくると思い込んでいる。事実、多くの推理小説では、巧みな表現で手がかりから読者の注意をそらし、読者から情報を遠ざけようとしている。時制や語り手をミスリードさせる「叙述トリック」などは、作者と読者の攻防から生み出された手法といえるだろう。しかし、本作は、極端にストレートな書き方がなされた、「フェアな」推理小説として名前を残すに違いない。「疑う」以外の読み方を提案した記念碑的作品である。

文=石塚就一