「人を殺してはいけない」という考え方は立場によって意見を変える 道徳の根本を見つめることで導き出す死刑制度の考え方

社会

更新日:2018/4/5

『死刑 その哲学的考察』(萱野稔人/筑摩書房)

 ――死刑。人を裁く上で究極の刑罰。その是非については、長年様々な議論が交わされているが、未だに結論は出ない。死刑制度を採用している国は世界的に見ても少なく、国際的な場で日本は度々非難を受けている。死刑制度は果たして認めるべきなのか。罪を犯した犯罪者ならば、合法的に殺されても仕方がないのか。私たちは死刑制度について、どのように考えて意見を導き出せばいいのだろうか。『死刑 その哲学的考察』(萱野稔人/筑摩書房)より、今一度考えてみたい。

■死刑制度を考えるために

 死刑制度の是非について語るとき、その多くは道徳的な視点からが多い。

「被害者の気持ちを考えれば、犯罪者を生かしておくことはできない」
「犯罪者の更生の機会を永遠に奪うのだから、死刑は残酷な刑罰だ」

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 代表的な意見としてはこのようなものだろうか。どちらも納得のできる意見であるが、そもそも論として、「道徳」という視点から死刑制度の是非を語ることはできるのだろうか。

■「人を殺してはいけない」という道徳

 誰もが小学校で学んだ道徳。人の善悪について考えるこの授業では、「人を殺すこと」についてクラスのみんなで考える時間もあったはずだ。「かわいそうだから」「自分がされたくないことを他人にしてはいけないから」などなど、様々な理由を述べ、「絶対に人を殺してはいけない」という結論で授業がまとまったに違いない。

 それから月日が経ち、私たちはあらゆる人生経験を通して大人になった。どうだろう。あの頃と意見はまったく同じだろうか?2014年に内閣府が行った「死刑制度の存廃」に関する世論調査によると、「死刑もやむを得ない」と答えた人の割合が80%を超えている。つまり国民の8割は「場合によっては人を殺すこともやむを得ない」と考えているのだ。

 この他にも「安楽死」や「人工妊娠中絶」など、人を殺すことについて例外的な道徳が存在する。何が言いたいかというと、一見すると絶対的な「人を殺してはいけない」という道徳が、実は多くの人にとってそれほど絶対的ではないということだ。

■道徳の規範原理

 ということは、道徳とは絶対的なものではなく、時と場合によって変化する相対的なものなのだろうか。度々長さの変わるものさしで死刑制度を語ってもいいのだろうか。

 私たちは「人を殺すこと」の是非を考えるとき、そして死刑制度の是非を考えるとき、確かに立場によって意見を変える。しかしその根底には「人として正しい考えを持って、ふさわしい結論を導き出して行動しよう」という、道徳の規範原理のようなものを抱えている。これこそ多くの人々が共通で持ち合わせている道徳の「普遍性」だ。

 「絶対に人を殺してはいけない」と「死刑もやむなし」という、相反する判断が1つの道徳として成り立っているのは、さらに根源的な道徳の規範原理のような「道徳的に正しいとはどういうことか」という共通した考え方が人の根底にあるからだ。そうした「普遍的な考え方」が多くの人々の心に根差している。

 それでは、「道徳的に正しい」とはどのようなものなのだろうか。道徳の正体とは何なのだろうか。

■価値の天秤

 そのことを説明するため、「価値の天秤」という比喩を用いたい。この天秤の皿には、道徳的に判断されるべき物事が置かれる。これらの物事の価値が釣り合えば「正しい」と判断されるし、釣り合わなければ「正しくない」と判断される。

 たとえば天秤があり、片方は「人に親切にすること」が、もう片方には「親切にされた人が感謝すること」がかけられるとしよう。もし親切にされても感謝をしなければ、この天秤は釣り合うことなく「正しくない」と判断される。

「他人に与えた危害」が片方の天秤にかけられ、もう片方には「刑罰としての不利益」がかけられたとき、両者の価値が釣り合うと思われれば、「刑罰としての不利益」が正しい判断となるのだ。これこそが道徳の正体だ。私たちは道徳を考えるうえで、自然と価値を天秤にかけて考えていたのである。

 

言い換えると、これは広い意味での応酬論ともいえる。目には目を、歯には歯を。誰かに優しくされたら、誰かに優しくしよう。とんでもない罪を犯したのだから、死刑にしてしまおう。

 私たちは常に心に「価値の天秤」を抱え、何かと何かを天秤にかけて比べていたのだ。

■道徳で死刑制度の是非を問うことはできない

 これらより死刑賛成派と死刑反対派の違いとは、「価値の天秤に何をのせたら釣り合うのか」という判断を巡る違いのことだ。「被害者の気持ちを考えれば、犯罪者を生かしておくことはできない」という意見は、「その犯罪行為」と釣り合うのは「命」だけだという判断によるものだ。一方、「犯罪者の更生の機会を永遠に奪うのだから、死刑は残酷な刑罰だ」という意見は、「命による償い」ではなく「心からの反省と更生の努力」こそが「その犯罪行為」と釣り合うとの考えによるものだ。

 死刑賛成派と死刑反対派、どちらにおいても「道徳的に正しい刑罰であるためには、犯罪と処罰が価値的に釣り合わなければならない」という考えが前提として共有されている。その前提のもとで「何と何が釣り合うのか」という点で意見が分かれているのだ。

 ここまでの内容をふまえると、道徳は相対的なものではあるが、「価値の天秤」という普遍的な考え方によって、多くの人々の間で考え方が共有されている。しかしその価値の天秤にはどのようなものも載せることができるので、道徳的には死刑を肯定することも否定することも可能になる。結果、道徳では死刑制度の是非を述べることはできないという結論が導き出される。

 かなり長い話になってしまったが、これほど深く考えないと、人を合法的に殺すことの是非は問えない。人の命がかかっている以上、間違った議論で是非を問うことはできないのだ。

■死刑制度の是非は「冤罪」の視点から考える

 道徳の視点からでは決着がつかない以上、死刑制度の是非は何をもってして問えばいいのだろうか。本書ではこのように述べられている。

 死刑の問題とは、凶悪な犯罪に対してどのような刑罰がふさわしいのかという道徳的な問題であると同時に、凶悪な犯罪者を処罰するためにはどのような権力(処罰権)の行使がふさわしいのかという政治哲学的な問題でもある。

 道徳的では死刑の是非を確定することができない以上、政治哲学的に考えることが必要になる。そこで浮かび上がるのが「冤罪」だ。

 本書を読み切った個人的な感想がある。それは国民全員が本書を読んでほしいということだ。死刑制度の是非を「冤罪」の視点から問う理由が書かれているということもあるが、なにより本書を読むことで物事の本質を理解し、国民の誰もがあまり深く考えようとしないこの問題を、今一度全員で考えてほしいのだ。

 私たちは毎日を生き抜くのに必死で、ついつい難しいこと・感情的に乗らない物事を避けたくなる。しかしそういった物事ほど、一部の人々だけに考えさせてはいけないのではないか。経済や格差社会の問題、死刑の問題、冤罪の問題は、今は人生に関係ないことでも、いつ我が身に降りかかるか分からない。無関心に放置されたこの重い問題を背負うことになったとき、どれだけの苦痛が訪れるだろうか。死刑制度の問題だけではない。日本が抱える重たい問題について、日本中が関心を持ち、国民全員で考えることができるような社会が訪れてほしいと願う。

文=いのうえゆきひろ