江戸時代にも「ゲイ風俗」があった!? 男も女もメロメロにした男娼の性技(テク)

文芸・カルチャー

公開日:2019/8/24

『江戸文化から見る 男娼と男色の歴史』(安藤優一郎:監修/カンゼン)

 近年特に「LGBT」という言葉をよく耳にするようになり、同性愛者や両性愛者について社会的に受け入れようとする風潮は強まってきている。2018年に放送されたテレビドラマ「おっさんずラブ」が今夏、映画化されるほど大反響となったのも、世間の人々が性別を“恋愛の障壁”として捉えにくくなってきたからかもしれない。

 だが、さかのぼって江戸時代の日本は、今よりももっと男同士の恋愛が盛んで、一般的だったようだ。それを教えてくれるのが『江戸文化から見る 男娼と男色の歴史』(安藤優一郎:監修/カンゼン)だ。

■江戸時代は男同士の恋愛が普通だった!?

 江戸時代といえば、幕府によって公認された吉原遊郭が有名だが、実は芝居町には「陰間(かげま)茶屋」とよばれる店があった。「陰間」とは、金品と引き換えに身体を売る男娼のこと。初めは歌舞伎役者が副業として身体を売っていたそうだが、いつしか舞台に立てない役者も陰間になり、ついには陰間を専業にする人も現れた。陰間茶屋はこうした陰間を抱えこみ、斡旋していた店だ。

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 江戸時代の浮世絵や浮世草子などの挿絵を見てみると、客と女と陰間という組み合わせの構図が多く見られる。このことから、当時は女性とも男性とも性交するバイセクシャルが、ある程度普通だったことが分かるという。そして、その文化的な背景には、江戸時代以前に、武士や僧侶、貴族などの上流階級の間で男色が公然と行われていたことが関係しているという。当時の日本では男色は隠すようなことではなく、公然と披露しても構わない風習だったのだ。

■プレイタイムは線香で計測?

 陰間は男性だけでなく、女性からも求められた。武家の奥女中や、庶民で夫を亡くした女性にも、陰間に夢中になる者がいたという。

 陰間茶屋はもともと、歌舞伎を見に来た客が上演前後に楽しむ場所。当時の歌舞伎は役者が陰間茶屋で客をもてなすのが一般的。そのもてなしのひとつとして重宝されていたのが、男色だ。そのため、陰間と遊びたい時は陰間茶屋へ行くのが一番手っ取り早いと考えられていた。

 そして、当時は遊女と陰間の両方を斡旋する店もあったため、遊女を住み込みで抱えている茶屋へ行き、経営者に陰間を呼んでもらって遊ぶという客もいたという。また、陰間を斡旋するだけで茶屋を提供しない陰間茶屋は、「子供屋」という陰間を抱えている置屋に派遣を依頼する。短時間提供された「かし座敷」を利用し、客は情事に耽った。さらに、「かし座敷」と同じような施設に「出合茶屋」というものもあり、こちらは陰間茶屋や置屋などを通さないフリーの陰間と遊ぶ時に使われたという。

 ちなみに陰間と遊ぶ時は「プレイタイム」が決められており、短時間の場合は40~60分くらいの「一ト切(ひときり)」、それよりも長く遊びたい時は2~3時間の「方仕舞(かたじまい)」や1晩過ごせる「仕舞(しまい)」を選ぶ。当時は正確に時を刻む時計がなかったので、線香1本が燃え尽きるまでを「一ト切」とし、終了時間になると付き人が知らせに来たという。

 こうした陰間茶屋の人気は18世紀後半から徐々に下火となり、1841年に水野忠邦が行った天保の改革により、ほぼ壊滅する。この際の改革は短期間で終わったが、陰間茶屋が復活することはなく、湯島にあったという陰間茶屋のみが明治初年まで営業を続けられた。

 陰間という職業から男娼・男色の文化をひもとくと、日本人が歩んできた“性の歴史”の新たな一面を知ることができる。本書には歴史的背景だけでなく、陰間たちの抱えていた苦悩や、客を満足させるための性技についても記されているので、そちらも目が離せないだろう。ジェンダーフリーが叫ばれている今こそ、通史では紹介されない“裏の江戸文化”に触れてみてほしい。

文=古川諭香