妻と夫とその恋人……不倫でつながる三人は、心の奥底でなにを思うのか。山田詠美最新作『血も涙もある』

文芸・カルチャー

公開日:2021/3/19

血も涙もある
『血も涙もある』(山田詠美/新潮社)

 今も昔も、有名人のスキャンダルはインターネットやテレビを賑わせる。特にそれが不倫となると、あたかも自分も関係しているかのように前のめりになる人もいる。

 しかしそこに当事者の視点はない。

 例えば夫婦のうち夫が不倫したのであれば、妻の心情は「不倫されて悲しい」というものだと多くの人が推測するだろう。だが、実際に三角関係のさなかにいる人にしかわからない感情もある。

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 それを描き切ったのが小説家・山田詠美さんの最新作『血も涙もある』(新潮社)だ。本作は章ごとに登場人物の視点を変えた恋愛小説である。中心人物として登場するのは有名な料理研究家・沢口喜久江(さわぐち・きくえ)、彼女より10歳年下の売れていないイラストレーターである夫・沢口太郎(さわぐち・たろう)、喜久江の助手であり太郎の恋人でもある和泉桃子(いずみ・ももこ)の三人だ。

 太郎と桃子はいわゆる不倫をしている。だが桃子は罪悪感を抱いていない。また尊敬している「沢口先生」つまり喜久江を、出し抜いたり傷つけたりするつもりは毛頭ない。桃子は一般的な「不倫する女」という言葉から連想される人物像とはかけ離れた存在なのだ。

 彼女は思う。

“沢口先生が、私を妬むなんてことあるだろうか。これまでだって、自分の夫を通り過ぎた女たちをさらりと受け流して来た人が。あんなに何もかもを手にして、それでも優しさと思いやりを元手に料理を作り続けて飽きることのない人なのに。彼女の芳醇な世界に比べたら、私の自由なんて吹けば飛ぶようなちっぽけなものに思えるけど?”

 太郎は売れないイラストレーターで、既に中年と言われる年齢だが無邪気だ。不倫を繰り返しながら、それが喜久江にばれていないと信じ込む姿からはなぜか卑怯さが感じ取れない。そしてもちろん、喜久江は太郎の度重なる不倫を知っている。だが彼女は悲劇のヒロインにはならない。自分は不倫されているのではなく不倫させているのだと思っていた。

“親密な関係を長く続けてきた男女には、独自のルールが作られているのだ。世の中の規範とかモラルなどとは、まったく関係のない極めて個人的な決まり。”

 彼女はビッグネームの料理研究家だが、多重人格者のような一面もある。太郎と桃子の恋愛で自分が部外者だと知ったとき、彼女は自分が嫉妬していることを自覚する。

 ユーモラスな雰囲気と不穏さ両方を漂わせた小説だ。

 横たわるのは決してワイドショーやドラマでは描かれない、当事者だけが知りうる関係である。

 読者は思わず喜久江に同情してしまうかもしれない。だがそれですら、喜久江の望むことではない。

“女がいくら年を取ったって、世知に長けたとか、物の解ったとかの、大人の女の役割を当てはめないでほしいの。”

 著者の持つ豊富な語彙と表現力。その文章は今までの山田詠美作品と同様に、さまざまな世代の女性が生きていくための糧になる。

 そして迎える結末と思いがけない後味に、私はまたうならされる。善悪を決めるのは、法律家の仕事だ。ただフィクションの世界は、事件や事象を善悪で分けず、その奥深くにあるものを読者に伝えられる。

 それは小説を読む醍醐味でもあると、本作を読んで実感した。

文=若林理央