馬鹿はおまえだよ/月夜に踊り小銭を落として排水溝に手を伸ばす怪人【最終回】

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/6

 又吉直樹の日々の暮らしの中での体験と、同時に内側で爆発する感情や感覚を綴る本連載。これら作品も少なからず収録したエッセイ集『月と散文』が無事発売され、いよいよ今回で最終回を迎える。ご愛読いただいた読者の皆様、どうもありがとうございました。またお会いしましょう。

 10年振りにエッセイ集を発表することになった。題名は『月と散文』になった。オフィシャルコミュニティと、まったく同じタイトルになってしまうので、なにか別のものでもいいのではないかと考えたが、これ以上にしっくりくるものが思いつかなかった。

 

『書いてるときだけ生きていた』
『月とひとり言』
『不要不急の人間賛歌』
『僕が不在のみんなのための平等な世界』
『一人で呑んでる』
『綾部さん、お元気でしょうか?』
『ランプ』
『日々、罅(ひび)』
『まいど!おもしろエッセイやで!!』
『自祝』

 

 どうだろうか?

『書いてるときだけ生きていた』、『月とひとり言』などであれば、本として完成すれば、自分の本として愛せたと思う。だが、『不要不急の人間賛歌』、『僕が不在のみんなのための平等な世界』、『自祝』とかになると、この時代のことを反映し過ぎているような気がする。

『一人で呑んでる』は個人的に気に入っている。酒場で体験したこと、聞いたこと、考えたことを綴った内容のエッセイ集ならいいかもしれない。『ランプ』は眠る前に読んで貰えるような短い物語を集めた本に合うかもしれない。

『綾部さん、お元気でしょうか?』は、言うまでもなく、最も避けたい。全国に存在する綾部さんは手に取ってくれるかもしれないけれど、なかなか内容を想像するのが難しい。『まいど!おもしろエッセイやで!!』という本に興味を持つ方が楽しめるエッセイを書ける自信が私にはないので、これも却下だろう。

 こうして、別のタイトルを並べてみても、やはり『月と散文』よりも相応しい題名はなかっただろう。そして、今回でなければ、『月と散文』という名の本を作る機会は永遠にないかもしれないと思うと、惜しい気がしたのである。

 ほとんどのエッセイは過去2年で書いた。エッセイ集の発売が決定してから、あれも書いておきたい、これも書いておきたいと新たに書き下ろしたものも、それなりの分量になっている。だが、2020年以降に起きたことだけを書いたわけではなく、一人で過ごすなかで、これまでの人生を振り返ることで、書けたことも多い。

 小説を発表してから、自分の芸風を見失っている時間が長かったので、それを探す旅のような側面もある。見つかったのは、自分自身や他者のことを理解できずに迷い続けている人間の姿だった。つまり、「俺の芸風ってなんやったっけ?」と迷っている状態こそが、私の芸風そのものだった。生まれてから、自分のことや世界のことを完全に把握したことなど一度もなかった。ごく稀に美しい風景や言葉に触れた瞬間に、それを獲得したような気がするだけだ。私は自分の芸風を見失ってなどいなかった。その状態から、ずっと抜け出せないでいることも問題かもしれないが、それは、一旦置いておこう。

『月と散文』は二部構成になっている。大きく振り分けると、幼い頃から続く記憶を書いている章と、今、起きていることと考えていることを綴った章。どちらのテーマも互いに浸食し合ってもいるので、完全に分かれているわけでもない。

 エッセイを書くときに、一人称を「僕」とすると、42歳にもなって「僕」でいいのだろうかと不安になるし、「私」と書くと、これだけ頼りない自分が「私」と書いて浮いていないだろうかと気になってしまう。エッセイ集では、そのあたりも工夫で乗り越えようと細やかな抵抗を試みた。

 創作や家族のことについても時間を掛けて書いた。いずれにせよ自分にとって大切なことだけを真面目に書いた本になった。ふざけて書いている雰囲気を醸しだして「肩の力が抜けていて素敵」と人から思われたい欲求はあるのだけれど、どうしても書いているうちに真剣になり鼻息が荒くなってしまう。最後までふざけることに成功したとしても、途中からなにかに憑りつかれたように集中してしまい、結局はふざけるということに対して真面目に取り組んでしまうのである。

『火花』という小説が、羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』とともに芥川賞を受賞した時、辛口コメンテーターと呼ばれる人が、「芸人が小説を書いたとか作品の内容ではなく、周辺のことばかりをマスコミが取り上げるのは本質的ではない、それに羽田圭介さんの方が顔を白く塗ったりして芸人みたい」というようなニュアンスの文章を、もっと意地悪に書いていた。

 それを読んだ私の感想は、「内容ではなく周辺のことばかりマスコミが取り上げるのは本質ではない」と語る者が、周辺の周辺を語り、自分が本質と主張する作品には一切触れないとはどういうことなん? ギャグじゃないとしたら、相当な馬鹿なんかな。「満員電車って本当に鬱陶しい! みんな、なんで満員の電車なんかに乗ってるの!」と周囲に当たり散らして、自分自身がその満員電車を構成している一人であることに気付いていない馬鹿と同じ状態になっているよ。というものだった。

 同時期に、その辛口コメンテーターとテレビ局で会うことがよくあった。あっ、あの恐ろしいほど思考の視野が狭い人や、と動揺しながらも、まぁ、この人も仕事の役割があってのことだからと一定の理解を示し、「おはようございます」と丁寧に挨拶したつもりなのだが、完全に無視されてしまった。日を変えて三度もである。二度目、三度目は興味もあって、実験的な意味合いで挨拶をしていたのだが、四度目からは、「無視しているのに繰り返し挨拶してくるということは喧嘩を売っているのか?」と誤解を招くかもしれないので、目を合わさないようにしていた。 挨拶もできないなんて酷いものだなと思っていたが、あの人は遠回しに私のことを芸人らしくないと揶揄したかったのかもしれない。

 やはり私は過剰に真面目な部分があるのかもしれない。こんなことをいつまでも覚えていたり、誰かの言動の理由を一人で考え込んだりする芸人らしからぬ性質があるというのが、私の芸風だったということなのだろう。

 このようなネガティブで醜い感情も、エッセイ集『月と散文』には書き込めたと思う。それを読みながら、「馬鹿はおまえだよ」と私のことを笑ってもらえたら幸いである。

(ここで掲載する原稿は、又吉直樹オフィシャルコミュニティ『月と散文』から抜粋したものです)

又吉直樹(またよしなおき)/1980年生まれ。高校卒業後に上京し、吉本興業の養成所・NSCに入学。2003年に綾部祐二とピースを結成。15年に初小説作品『火花』で第153回芥川賞を受賞。17年に『劇場』、19年に『人間』を発表する。そのほか、エッセイ集『東京百景』、自由律俳句集『蕎麦湯が来ない』(せきしろとの共著)などがある。20年6月にYouTubeチャンネル『渦』を開設