深刻な飢餓の中では、子を“生かすために差し出す”選択もあった。「生きること」が先なのだ/今日も、私は生きている。④

文芸・カルチャー

公開日:2023/9/29

今日も、私は生きている。 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』(曽野綾子/ポプラ社)第4回【全6回】

修道院付属の学校に通いキリスト教の道に進みながら、数多くの国や地域を巡ったベストセラー作家・曽根綾子さん。『今日も、私は生きている。 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』では92歳になる著者が、富める人、貧しい人、キリスト教徒、イスラム教徒など様々な人と出会い感じたことをもとに「勝ち負けのない人生」を説いています。丁寧に綴られた言葉に思わず背筋が伸びるような気持ちになる、珠玉のエッセイ集をお楽しみください。

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今日も、私は生きている。
『今日も、私は生きている。』
(曽野綾子/ポプラ社)

生きることがまず先なのだ

 子供を「よい」教育環境のもとに置きたいという願いは万国共通のものである。つまり子供が置かれている場所が平和で、よく整備されていて危険がなく、栄養も行き届き、教育的配慮や設備も行き届く、という状態である。

 日本だけでなく、台湾を旅行した時にも、日本とそっくりの塾で、夜十時までも勉強している小学生の姿が、開け放たれた窓からよく見えた。しかし世界中の子供が実際にこのような環境に置かれているわけではない。というより、それほどの手厚い保護を与えられている子供などというものは、全体の数から言えば例外に属するであろう。

 教育的でないことを子供にさせることに対して、日本人はすぐいきり立つが、日本風に言うと金をせびることを、遊び半分、実質半分にしている子供は実に多い。

 昔タイの田舎の道路の建設現場で取材していた時、タイ人の子供に混じって一人の白人の子供がいた。その子の父親は、ヨーロッパ人で、その現場のコンサルタントの検査官として赴任してきたのである。

 玩具も遊園地もスポーツ用具もない子供たちにとって、もっとも「実質的な」遊びの一つは外人から金をもらうことであった。「コータン・パーツ(お金をおくれ)」と彼らは人の顔を見ると言い、手を差し出した。くれなくてもともと、くれれば大得、という感じであった。そして白人の検査官の息子も、土地の子供たちと同じように金をもらおうとして、塀の金網の向こう側から手を出していた。私がこの子の母だったら、このような土地にはやはり教育上いられないと言って、夫を残して帰ってしまうかもしれない、と私は考えていたのである。

 望むと望まないとにかかわらず、生活に呑まれて生きるほかはない、というのが、地球上の多くの家庭の否応のない立場である。とにかく生きることが先なのだ。

 飢餓で脚光を浴びる、という痛ましい状況に到った年、私も軽薄なジャーナリズムの人道主義の波に乗って、エチオピアの首都から五百キロほど離れた土地の難民キャンプの取材をしたことがある。そこの子供たちは、とにかく食べ物にありつくことが仕事のようであった。いつもキャンプの外にたむろして、何かいいことが起こらないかじっと見守っている。

 特別に栄養の悪い子はキャンプの柵の中に呼び入れて、日に二度、給食をする。しかしこの飢えた子供たちは決してがつがつと食物をむさぼらない。まるで食欲がないかのようにのろのろ食べている。

 空腹と飢餓が違うことを知ったのはその時であった。私たちが体験するのは、空腹だけだから、私たちは食物を待ち兼ね、目の前に出されるとがつがつして食べる。

 しかし飢餓に陥った子供たちはもう食欲がなくなっている。生死の分かれ目で、死の方に近くなっている徴候なのである。

 どこかのキャンプで「食べ物をあげよう」と言ったら、「毛布をください」と答えた痩せ細った子供は、翌日息を引き取ったという。その話を聞かされた夜は、南十字星が天空にあたかも十字架のように弱々しく輝いている夜空を、まともには見られなかった。

 エチオピアにいたのは、十数日だが、その間に、私は二度も、腕に抱いている子供を今すぐ持って行ってくれ、と言われたのである。私がどういう人間か調査一つせずに、である。一人は母親、一人は父親であった。周りにはたくさんの人もいる。その衆人監視の中で、とても子供を食べさせていけないから、もらってくれ、と二人の親は赤子を差し出したのである。

 子供をやってしまうことが、決して子捨ての意味にはならないらしいことが、その状況からも察しられた。とにかく、親と子が生きるためには、そうでもするほかはない。もし私がそこでその子をもらってくれば、それで、親子は生き別れである。生き別れでも生きていられればいい。生き分かれなければ、二人とも死ぬかもしれないのである。生きることがまず先なのだ。だから、子を捨てようとする親を責めてはいけないのである。

 こういう状況の子供たちは、学校へ行くことなど、意識にないように見える。しかし生きること、食物を探すことは、彼らにとって実に偉大な仕事なのである。どこの国のどんな大人でも、これほど真剣で絶対的な目標を持つ者はいない。飢餓を救うことは当然だが――それほど真剣な人生を歩いている子供たちは他の国では見たことがない、と私は思った。

<第5回に続く>

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