人種差別する医者、薬を得られない少年。手厚い医療が当たり前にある社会への道のり/今日も、私は生きている。③

文芸・カルチャー

公開日:2023/9/28

今日も、私は生きている。 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』(曽野綾子/ポプラ社)第3回【全6回】

修道院付属の学校に通いキリスト教の道に進みながら、数多くの国や地域を巡ったベストセラー作家・曽根綾子さん。『今日も、私は生きている。 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』では92歳になる著者が、富める人、貧しい人、キリスト教徒、イスラム教徒など様々な人と出会い感じたことをもとに「勝ち負けのない人生」を説いています。丁寧に綴られた言葉に思わず背筋が伸びるような気持ちになる、珠玉のエッセイ集をお楽しみください。

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今日も、私は生きている。
『今日も、私は生きている。』
(曽野綾子/ポプラ社)

黒人をみない医者

 知人がアメリカに駐在していた時のことである。

 深夜、お腹が痛くなった。彼は知人の医者のクリニックに駆け込んだ。

 痛み止めの注射を打ってもらってほっとして帰ろうとしていると、入り口のドアを押して、いかにも苦しげな黒人の女性が入って来た。

「五百ドル払えるかね」

 とドクターはいきなり言った。肌の黒い患者は一瞬考えたあげく、首を横にふって悲しい眼差しを残して出て行こうとした。

「僕は普段けちだし、決して親切じゃありませんけどね。その時、ついさっきまで自分が苦しかったもんで、その人が気の毒になりましてね。思わずその人を呼び止めて、『僕が五百ドル払いますから』と医者に言ったんです。そうしたら、その医者が『君が払っても、僕は黒人はみない』と言ったんです」

 この話を聞いたのは一九六八年頃のことである。私はアメリカに暮らしたこともないので、ほんとうに細かくこの話を理解することはできないような気もする。それにまた今は状況が変わっているかもしれないし、底流は同じなのかもしれない。とにかく、その時、この心温かい商社マンは、黒人の女性にもドクターにも「余計なこと」をしたことになる。

 日本人は、体が悪くなったら、すぐさま、金があろうがなかろうが、医療を受ける権利があるし、それができないような状態なら、それは許すべかざる政治の貧困であり怠慢だ、というふうに感じている。

 日本領土内ならどの離島にでも、嵐ででもない限り、人命救助のためにはヘリコプターが飛ぶ。救急車は今の日本なら、ほとんどの土地から三十分以内に、一応の医療機関に患者を連れて行き、そこでは応急処置はしてくれる。少なくともひどい痛みだけくらいは止めてくれる。しかし発展途上国でも先進国でも、痛みを止めるということさえ、それほど簡単にはできないところが多い。

 アフリカの内陸にあるマリという国の首都からうんと離れた村で、私は一人の少年に会ったことがある。その子は十三、四歳に見えたが、足の親指の爪が瘭阻(ひょうそ)になって腫れあがりびっこを引いていた。

 彼らはいつも裸足なのだから、足の裏など木の皮のように丈夫である。そういう暮らしに馴れた子供が、足を引きずり、辛そうに、かたことのフランス語で「薬、薬」と言うくらいだから、そうとうに痛いのであろう。私はいつも車にちょっとした診療所ほども薬を持って歩いていた。それなのに、その日に限って、日帰りの短いドライヴに出るだけだ、と思って、薬箱をホテルに置いて来てしまっていた。私が持っていたのは、小さな消毒綿入れのケースだけであった。

 その子の足の爪を消毒綿で拭いてやりながら、私はどれほど、薬箱というものはいつでも携行すべきものだ、と後悔したかしれない。普段抗生物質を使っていない子供には半量を投与するだけでも、即効があるだろうに、と悔しくてたまらなかった。

 私はその村の深い谷の絶壁の上に立って、瘭阻の少年と限りなく遠くまで見える荒野にトビの飛ぶのを眺めながら、この少年が痛みを止めてもらいにどこかまで行くということは、事実上、長い長い実現の難しい旅をしなければならないのだ、ということに暗澹としていた。路線バスもない。タクシーもない。第一それらのものに乗るお金がない。自然を残すということは、まさにこのような残酷な面を伴うのだということを、ナチュラリストと呼ばれているような人たちは、どう考えているのだろう。

 この反対の国もあった。東南アジアの旅行の途中、まだ小学生だった息子を連れて香港まで来た時、彼は高熱を出した。風邪かもしれないが。ちょうど十日ほど前、タイのあまり清潔とは言えない海岸で彼は泳ぎ、海中の構造物の釘で足に怪我をした。だから破傷風ということもないとは言えないかもしれない。

 幸い香港には知人がいて、彼女は個人の医者を起こすにはまだ早過ぎるので、クイーン・エリザベス・メモリアル病院に行った方が確実だと言い、自分の車で連れて行ってくれた。

 救急用の部屋には白いカーテンで区切った診察台が幾つも並んでおり、何科の患者であろうとその一つに入れられる。やがてドクターが現れて経過を聞き、破傷風は確かに可能性がないでもないから、とワクチンを注射してくれることになった。初めにテストをし、それが大丈夫となっても、注射の後、何分間か待って異常反応が現れなかったら帰ってもいい、という。

 すべての適切な処置が終わって、それで驚いたことに全く無料であった。たとえ旅行者でも、である。

 息子の治療費をただにしてもらったからではないが、こういう制度を見ると、もし香港が植民地としてスタートしなかったら、この年代までにこのような生活の諸条件が果たしてこの土地にできたかどうかを考えてしまう。確かに植民地制度はいいものではないが、その土地の人々に、独立の意欲と組織の才能が既に備わっており、悪しき要素は避け、良き部分は積極的に取り入れるという選択眼があれば、願わしくない社会状況をも逆手にとって短い時間に進歩することもできるということである。この病院で後年作家の梶山季之氏も旅行中に運び込まれ、そのまま亡くなられたはずだと記憶している。

<第4回に続く>

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