友達がいなくてもいい、ご近所と円満でなくてもいい。孤独を受け入れたら自由を獲得できる/そんな我慢はやめていい

暮らし

公開日:2023/10/23

 現代社会では、仕事、育児、人間関係などのあらゆる場面で「我慢」がつきもの。でもその我慢、あなたの幸せにつながりますか?

 『そんな我慢はやめていい 「いつも機嫌がいい自分」のつくり方』は、人生を幸せにする「意味のある我慢」と、幸せにつながらない「意味のない我慢」を区別する視点を与えてくれます。「意味のない我慢」からは逃げてもいいし、無理してがんばらなくてもいいのです。

 他人の目、場の空気、同調圧力などを気にせずに、自分らしくご機嫌で生きられるヒントを探してみませんか?

 今回は“人間関係”の我慢について。友達の存在は人生を楽しくする一要素ですが、実は必須ではありません。「孤独」を楽しみ、受け入れたときに自由を獲得できるのです。

※本作品は『そんな我慢はやめていい 「いつも機嫌がいい自分」のつくり方』(午堂登紀雄/日本実業出版社)から一部抜粋・編集しました

【30日間無料】Amazonの読み放題をチェック >

【初購入金額がポイント70倍】楽天Kobo電子書籍ストア


そんな我慢はやめていい 「いつも機嫌がいい自分」のつくり方
『そんな我慢はやめていい 「いつも機嫌がいい自分」のつくり方』(午堂登紀雄/日本実業出版社)

友達はいなくてもいい

●友達がいなくても幸せはつかめる

 内向的で人見知りな人、人間関係につまずきやすい人、気疲れしやすい人は、「友達はいなくてもいい」と思い切って割り切るのがおすすめです。

 友達の存在は人生を楽しくする一要素ですが、必須のものではありません。友達がいなくても生きられるし、幸せもつかめます。

 これが思春期の年ごろであれば、自分の感情を共有できる同年代の友達は、情緒的発達には欠かせないかもしれませんが、社会に出て自分でお金を稼げるようになれば、ひとりで生きられます。コンビニに行けば食べ物が手に入るし、病院にも行ける。ひとりで楽しめる娯楽もたくさんある。何も困ることはありません。

「寂しい」?

 いまや「おひとりさま」でも楽しめるよう、飲食店を始め動画や漫画など娯楽も充実していますから、気になることはないでしょう。SNSに時間を使うこともないですから、お気楽です。

「悩みを相談できる人が欲しい」?

 成人して抱える悩みのほとんどは、友達に相談してもどうもならないことばかりで、専門家にお金を払って解決してもらうべきものです。逆に友達に相談して解決できる程度の悩みは、じつは悩みにすらなっていないといえます。

「人に話すとすっきりする・悩みが整理できる」という効果があるのはたしかですが、成熟した大人とはそれらを自分のなかで消化できる知性を持っているものですから、自分の知的成熟度の幼さを疑ったほうがよいかもしれません。

 これは拙書『前向きに悩む力』(日本実業出版社)でも紹介した「内省」という作業で、この習慣があればさまざまな悩みを自分で消化・昇華できるのです。

 そう考えれば、友達は「いればいいな」ぐらいのもので、いなければいないで問題ないと思えてこないでしょうか。

●「孤独」をたのしめる人は他人を尊重できる

 ちょっと話は変わりますが、多くの人は、自由を求めていると思います。

 他人を気にして本音を出せない状態、何かに縛られてがんじがらめになっている状態より、自分の好きなように生きられるほうがいいはずです。つまり、自由とは、何からも誰からも制約を受けず、自分の意のままに生きられることです。

 そんな自由を得たいならば、そこには必ず孤独がつきまといます。なぜなら、人はそれぞれ考え方や価値観が異なるため、誰かと一緒にいようとすれば必ずぶつかる場面が出てきますから、それを避けるにはある程度の距離を保つ必要があるからです。

 たとえば田舎の集落で暮らせば、農作物を融通しあったり、互助的な生活が送れます。その代わり、地元の人間関係や風習には多少なりとも従わなければなりません。

 一方、都会にはそのようなしがらみはほとんどありません。賃貸マンションに住んでいれば、隣の人が誰かも知らないし、知る機会すらないと感じる人も少なくないと思います。風習や習慣もない。だから誰にも縛られない。これは自由です。

 しかしその裏返しに、都会に暮らすとアパートの一室でひとりぼっち、などと孤独を感じることもあるわけです。

 また、ひとりでは寂しいからと、いつも誰かとつるもうとすれば、自分の意に沿わないことも、周囲の目を気にし、周囲の評価を気にし、気配りしなければなりません。寂しくない代わりに、不自由さが伴います。

 孤独を受け入れずして自由を得ることはできません。逆に孤独を避けようとすればするほど、他人に合わせなければならず、つまり自由もあきらめることになります。

 逆にいうと、孤独を受け入れて初めて自由を獲得できるということです。

 それに、ひとりの時間を楽しめるということは、自分の領域を尊重しているということでもあります。それはつまり、他人の領域を理解し尊重することにつながり、ずけずけと相手に踏み込んだり自分の考えを押しつけたりしない寛容さにつながります。

 自分は自分、他人は他人というほどよい距離感を守ろうとしますから、他人に対する許容力が上がり、イライラを減らし、他人と比較しないで生きられるということです。

●ご近所と円満でなくてもいい

 同じ理由で、近隣住民とのつきあいはなくてもいいし、それで気をつかう必要もないと私は考えています。地域によっては、面倒くさいと思いながらも我慢しつつ、「ご近所さん」とつきあっている人もいると思います。

 そもそも近所の人と神経をすり減らしてまで仲よくするメリットはあるでしょうか。田舎なら前述のように野菜を融通してくれるなどといったことがあるかもしれませんが、別にスーパーで買えばいいだけです。

 私自身は、近所づきあいはゼロです。自宅を建築する際、両隣から反対運動があったそうで、引っ越ししたときにあいさつに行ったときも嫌味を言われたぐらい嫌われているからです(自宅は三階建ての賃貸マンションですが、どうやら嫉妬のようです)。それ以来、すれ違ってもあいさつすらしない間柄です。

 しかしそれが幸いし、自治会への勧誘がありません。自治会費はかからないし、回覧板を回す手間もないし、地域のイベント(夏祭りや公園の清掃など)に駆り出されることもないので、これはラクです。

 また、近隣は高齢者が多く、自分の子どもの学校関係と被らないですし、自分たちとは生活リズムが違うことから、顔を合わせることもほとんどありません。

 家の前には市が設置した防犯カメラがあるので防犯面も安心で、賃貸マンションゆえ自前のダストボックスを設置しているので、共同のゴミ集積所を使うこともない。

 このように、わが家は「ご近所づきあい」からは完全に外れていますが、まったく不都合はありません。

 ただし人間関係がなくても問題ないよう、災害対策は万全にしています。防災セットや非常食、ミネラルウォーターの備蓄量はおそらく近隣ナンバーワンだと思っています。非常時でも近隣の支援が必要になる可能性は低く、むしろ自分のほうから提供できるもののほうが多いのではないかと思っています。

 そもそも、「人間関係があるから助けるけれど、なければ助けない」という発想は私にはなく、そういう場面では誰であろうと助けるつもりです。

<第5回に続く>

本作品をAmazon(電子)で読む >

本作品をebookjapanで読む >

本作品をコミックシーモアで読む >

本作品をBOOK☆WALKERで読む >

あわせて読みたい