“18世紀のインフルエンサー”、マリ・アントワネット。彼女のためのチョコレートとは?/チョコレートで読み解く世界史④

文芸・カルチャー

公開日:2024/2/18

チョコレートで読み解く世界史』(増田ユリヤ/ポプラ社)第4回【全5回】

ヨーロッパとキリスト教の歴史から、今の世界情勢が見えてくる! マヤのバカル王にとって長寿の秘訣だった“カカオドリンク”、チョコレートが人気ゆえに続いた100年の論争、そしてチョコレートも工場で作られるようになった産業革命。他にも“18世紀のインフルエンサー”とも言えるマリ・アントワネットにとってのチョコレートの役割など、様々な切り口で歴史と宗教を学べる一冊です。“チョコレート”というちょっと変わった視点から歴史を学び直す『チョコレートで読み解く世界史』をお楽しみください!

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チョコレートで読み解く世界史
『チョコレートで読み解く世界史』(増田ユリヤ/ポプラ社)

政略結婚で領土を拡大したハプスブルク家

 フランスにチョコレートをもたらしたとされるスペインのふたりの王女。すでに紹介したルイ14世の妃マリ・テレーズも、これから触れるルイ13世の妃アンヌ・ドートリッシュも、ハプスブルク家とゆかりがあります。

 ハプスブルク家も、歴史の授業で出てきたけれど、どれほどの存在だったのかはよくわからなかったという方が多いのではないでしょうか。ここでは、ハプスブルク家のことをかいつまんでお話ししたいと思います。

 ハプスブルク家と言えば、婚姻関係を結ぶことによってヨーロッパ各国の王位につき、世界中に領土を拡大していった一族として知られています。もともとは、スイス北部の貴族の家系で、山の上に位置した居城「ハプスブルク」(ドイツ語で「鷹の城」の意)が名前の由来です。

 スペインでは、カルロス1世がスペイン・ハプスブルク家を創始しました。前述したフェリペ2世の父親にあたります。カルロス1世はハプスブルク家の血筋を引き、神聖ローマ帝国(ドイツ)では皇帝カール5世という名前で即位した、スペイン、ドイツの両方を統治していた人物です。

 カルロス1世が皇帝カール5世としても即位したことにより、フランスは、東にドイツ、西にスペインと、ハプスブルク家の一族に挟まれることになり、両者の対立が明確なものとなりました。

 しかし、カルロス1世(皇帝カール5世)の時代である16世紀は、ルターが始めた宗教改革が行われ、キリスト教にプロテスタントが誕生した時代でもあります。プロテスタントに対抗する形でカトリックでも改革運動が盛んになり、キリスト教の宗派間の衝突は激しさを増しました。

 スペインとフランスは国家としては対立関係にありましたが、宗教的には同じカトリック。カトリック同士としてまとまらないとプロテスタント勢力に立ち向かっていけません。

 そこで、フランスのルイ13世が妃に迎えたのが、スペインのフェリペ2世の孫娘にあたるアンヌ・ドートリッシュ。フランスのブルボン朝もハプスブルク家の血統を受け継ぐスペイン王家と血縁を結んだのです。ちなみに、ルイ14世もスペイン王室からマリ・テレーズを妃に迎えましたが、ハプスブルク家の血筋というだけでなく、いとこ同士の結婚となりました。

 スペイン・ハプスブルク家を創始したカルロス1世は、弟に神聖ローマ帝国(ドイツ)を、息子のフェリペ2世にスペインを継承させます。ここから、ハプスブルク家がスペイン系とオーストリア系の2つに分かれることになりました。16世紀半ばに起こったハプスブルク家の分離です。なお、オーストリア・ハプスブルク家の当主は、オーストリア大公と神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝を兼ねていました。

「18世紀のゴッドマザー」マリア・テレジア

 ハプスブルク家の分離から200年ほど経ったころ、オーストリア大公として君臨したのがマリア・テレジアです。彼女は、夫と息子に神聖ローマ皇帝の地位を継がせて、自身は国内産業の振興や農奴の労働の負担軽減、軍制の改革などに着手し、教育面では小学校をつくるなどして、国民から支持される存在となりました。

 家庭的な人物としても知られ、夫のフランツを愛してやまず、16人の子宝に恵まれました。夫亡きあとは、悲しみにくれて終生黒い喪服で通しました。その末娘が、マリ・アントワネット。フランスと同盟関係をつくり、オーストリアを強国として維持するために、この末娘をのちのルイ16世と政略結婚させました。

「18世紀のインフルエンサー」マリ・アントワネット

 フランスに輿入れすることになったマリ・アントワネットは、オーストリアの様々な文化をフランスにもたらし、フランス宮廷においてはファッションリーダーとしても貴族たちの憧れの的でした。今で言うインフルエンサーですね。

 実は当時、彼女の居城となったヴェルサイユ宮殿にはトイレすらなく、宮殿のあちこちでドレスを着たまま用を足していたので、汚れないようにハイヒールを履いていました。入浴の習慣もなかったので臭いを消すために香水が発達したと言われるほどでした。マリ・アントワネットは、ここにバスタブを持ち込み、侍女たちにバケツでお湯を何度も汲み入れさせ、入浴をしました。

 また、王妃として贅の限りをつくし、晩餐会などパーティーが開催されるときには、ヘアスタイルも凝りに凝った、斬新な形を披露しました。髪を大きく膨らませたうえに、庭園や城塞などを模したものをのせていたのです。今ではありえないと思うようなことですが、誰にもまねできない、目立つことをすることが自身の使命のようにも思えていたのでしょう。

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という言葉をマリ・アントワネットが言ったとか言わなかったとかいう話は有名ですし、正方形のハンカチや腕時計なども初めて作らせて身につけ、贅沢ざんまいだったと言われています。一方で、子どもたちのおもちゃや衣服などを恵まれない子どもたちのために寄付したり、何より子どもたちを大切に育てていた一面もありました。その面では、母親ゆずりだったのかもしれません。

 そのほか、自由奔放な面もクローズアップされることが多く、スウェーデン出身の青年貴族フェルセンとの恋愛が取りざたされたり、無関係だったにもかかわらず宮廷内で王妃の名前を騙った詐欺事件(首飾り事件)が起こったときには国民から非難を受けたりと、何かとストレスの多い人生を送った王妃でした。

マリ・アントワネットはチョコレートに薬を溶かした

 ストレスの多い日々だったせいか、マリ・アントワネットは、チョコレートに粉末の薬を溶かして飲んでいましたが、フランスで飲むチョコレートは、オーストリアで飲んでいたものと違って、苦くて飲むのに難儀していました。

 そこで、宮廷の専属薬剤師が、マリ・アントワネットのために考案したのが、チョコレートを固めて食べる方法です。薬を溶かしたチョコレートを浅くて円い型に流して固めてコインのような形にし、それを王妃に差し出して食べさせました。すると王妃は「パリパリして美味しい」と感激したそうです。

 その後、1789年にフランス革命が起こると、マリ・アントワネットは、革命に反対し、王政維持を画策したことで幽閉され、処刑されてしまいます。14歳でフランスに嫁ぎ、37歳で生涯を終えることになったのです。

 フランス革命後、王政は廃止され、宮廷で働いていた人たちは、一斉にパリの街に出てお店などを開業しました。宮廷専属の薬剤師だったドゥボーヴ氏も、1800年、パリの中心地サンジェルマン・デ・プレにチョコレート店を開業しました。現在のドゥボーヴ・エ・ガレです。お店は、現在も当時のたたずまいのまま営業していて、マリ・アントワネットのために作られたチョコレートは、「マリ・アントワネットのピストル」という名前の商品として、現在も食べることができます。「ピストル」というのは、16世紀にスペインで使用されていた金貨のフランス名です。

<第5回に続く>

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