まつもとあつしの電子書籍最前線 ミリオンセラー『スティーブ・ジョブズ』 はこうして生まれた

更新日:2013/8/14

厳しいセキュリティとスケジュール

――本書は、Appleの製品同様、内容やその存在について非常にセキュリティが厳しかったと伺っています。

柿島:「いずれ(伝記が)出るだろう」という噂は早くからささやかれていましたし、講談社もニューヨークのスカウト(業界情報をキャッチする専門家)から情報を得ていました。その後、2010年の夏頃に日本のエージェントから本書の企画を聞かされ、本格的に獲得に動き始めたのは、版権交渉がオープンとなったフランクフルトブックフェア(毎年10月に開催される世界最大規模の書籍見本市)からですね。

そこから、激しい獲得争いがあり――その詳細は契約上明らかにできませんが――最終的に、今年2月に契約に至りました。

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青木:今回、守秘義務が非常に厳しかったというのは、原文原稿のやり取りにもよく現れています。通常、翻訳書籍は完本(完成した本)の提供を受けてから翻訳や編集をスタートすることも多いのですが、私たちとしては「同時発売」に持ち込みたかったので、契約の際にその旨を盛り込んでもらいました。

柿島:世界の他の出版社に遅れることなく、世界同時に刊行しよう、というわけです。全世界で約37社がその前提で契約しています。アメリカやイギリスは翻訳の必要もなくそのまま出せばいいわけですが、他の国では翻訳作業が必要です。スケジュールがあまりにもタイトだったため、実は間に合わなかった会社も多かったそうです。

その一方で、「抜け駆け」は厳禁、つまり1日たりとも早く発売することも禁じられていました。ということはボジョレーヌーボーと同じで、時差の関係上、日本が世界で一番早い発売となるわけです。実際は、ロンドンのヒースロー空港でフライング発売があったという声もありましたが……ともあれ、普段は書籍の書店への搬入は発売日の前日に行う事が多いのですが、上記のような契約上の理由から、それは難しかったんです。

結局、24日の朝一番に出荷となったため、首都圏でもお昼頃、地方では翌日以降にならないと店頭に並ばないケースもあり、「お店に行ったのに本がまだなかった」という声につながってしまいました。私たちも別途運送業者に配送を手配するなど対策はできる限り打ったのですが、現在も品薄が続いていています。読者の方、書店の方にはたいへん申し訳なく思っています。

青木:オリジナルの原稿の執筆と翻訳がほぼ同時並行で行われました。そういった場合、現在ではPDFファイルのような形で原稿をメールで送信してもらうようになっていますが、本書では紙のハードコピーを1通だけ預かっての作業だったんです。しかもコピーができないように加工が施された紙です。もちろん契約で定められた関係者だけしか見ることはできません。DTPオペレーターや印刷所ともNDA(秘密保持契約)を結ぶなど異例づくしでした。

「原稿のコピー1通だけじゃ、翻訳者との作業が進められない」と交渉して、最終的には3部を国際便で送ってもらいましたが、それでもやはりデジタルデータで原稿を預かることは最後までなかったですね……。

――そんな中、非常に短期間で翻訳を行った井口耕二さんにも注目が集まりました。

青木:翻訳書を緊急に出版する場合は、複数の訳者が分担して担当するケースも多いのですが、井口さんご本人の強い希望もあって完全にお一人で翻訳を行われました。最初から「クオリティを維持するためには良いものにするためには、最初から最後まで一人の訳者が責任を持つべきだ」と。

「スティーブ・ジョブズ」宣伝ポスターには、「緊急発売」のシールが急遽貼られた。

 当初は来年3月に出版されるはずだったこの本ですが、それが11月21日に前倒しになり、ジョブズ氏の体調の悪化を受けて、さらにスケジュールが1ヶ月近くも早められたわけです。その結果、井口さんが翻訳に充てることができる時間がどんどん圧縮されていきました。

『スティーブ・ジョブズ』は、ただでさえ通常の翻訳書の3倍近いボリュームがある本です。本来8~9ヶ月程度はかけるべきところを、実質2ヶ月半でやって頂くことになってしまいました。制作を行う私たちも含め、まさに時間との闘いでしたね……。
参考リンク:『スティーブ・ジョブズⅠ・Ⅱ』の翻訳について-その1: Buckeye the Translator

逆に言えば、これまでもウォズニアック氏の自伝(『アップルを創った怪物―もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝』)や、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン―人々を惹きつける18の法則』などのApple関連書籍の翻訳を数多く手がけ、専門用語や背景にある事象を理解している井口さんが、お一人で全部手がけられたからこそ可能だったとも言えると思います。とはいえ、実際の翻訳作業はまさに修羅場だったようで、最後は下界との接触を断ち、仕事に専念するために10日ほど”山ごもり”をして作業を進められたそうです(笑)。

柿島:上巻の校正はそれでもまだ2週間ほどの時間がありましたが、下巻は1週間くらいしかなかったですね……。編集も私たち二人だけで、青木が入稿、私が校了というスタイルで。前回、ウィキリークスについての本(『ウィキリークス WikiLeaks  アサンジの戦争』)もこの組み合わせで突貫工事が上手くいったという実績がありまして。

青木:我々これを半分冗談で「ファスト・パブリッシング」と呼んでいます(笑)。ホント綱渡りでした……。

柿島:いずれにせよ通常の翻訳書に比べても、とても読みやすい本になっているはずです。私たちも井口さんの訳はとてもクオリティの高いものになったと自負しています。