人間の情念を「毒花」にたとえる、唯一無二の図鑑。それを手に取ったとき、私の世界は一変した【読書日記13冊目】

文芸・カルチャー

2019/12/9

2019年11月某日

 どろっとした液体が大量に、頭の上に垂らされたときのような感覚に浸された。頭の上に垂らされた液体は顔面へ。血液だろうか、精液だろうか。いずれにしても少々物騒で生ぬるい、決して気持ちの良いものではないことは確か。そして、その気持ちの良いものではない毒々しいそれに降伏し、その状態に陶酔しきっているのもまた確かだった。

 11月のある日、私は『Out of Flora』という、小さなギャラリーで行われている展示を観に来ていた。Twitterのタイムラインでたまたま流れてきた花をモチーフにしたビジュアルが目に留まって以降、事あるごとに思い出しては「行かなければ」と思っていた。面白そうな展示情報はすぐにブックマークするようにしているのだけど、大抵は見返すのも忘れてしまう。そんな中、『Out of Flora』だけは気になって仕方なかった。

 何がそんなに気になるのかもわからず、正体を突き止めたいような気持ちでギャラリーに赴き、webで見かけた目当ての絵の前に立ったときに浴びたどろっとした感覚。画面全体には不安になる、だけど魅惑的な色が敷き詰められている。見るからに毒々しい花の一部は男性器を模したようなかたちをしていて、その下に漢字4文字でタイトルが描かれていた。まるでこの世に存在せぬ花の標本のようだった。こんな作品は観たことがない。

 ある種のショックで呆然とし、気づけば分厚い図録を、ギャラリーの方に手渡してお金を支払っていた。好きと呼ぶにはあまりに強い感情だった。喉の内側が熱くなって、手が届くならば引っ掻き回したかった。しかし、家に帰って買った本を開き、私はさらに打ちひしがれることになる。

 その本とは、齋藤芽生さんの絵画集『徒花図鑑(あだばなずかん)』(芸術新聞社)だった。

『徒花図鑑』には同名の作品のほか、「毒花図鑑」「地霊に宿られた花輪」「名もなき東京人のための花輪」「窓」「密愛村」などの作品群が収録されている。

「徒花図鑑」と「毒花図鑑」は作者である齋藤さんの空想上の花の“図鑑”だ。図鑑なので絵だけではなく、絵の中で花についての解説がなされ、さも実在するもののような印象を受ける。そのリアリティは、モチーフになっている題材に由来するのかもしれない。花になぞらえられているのは、もの悲しく、ときに滑稽な人間たちの情念だからだ。たとえば、「間男蔓(まおとこづる)」の解説はこうだ。

〈夫にも子供にも放置された真昼の主婦に寄生し、唇に注入した管から「貞淑さ」を奪い吸い、代わりに「淫らさ」を注入する。〉

 また、「毒花図鑑」には花言葉と解説が付され、毒などの設定も詳細で、「徒花図鑑」よりも“図鑑色”を濃くしている。「サバキノ・カラバリーナ」の花言葉は「僕、君が嘘をつかないって信じてるから……」。解説は以下だ。

〈愛の試薬として使われる。ハート形の種子を自分の恋人に噛ませながら、自分に対する永遠の愛を誓わせる。種子には特殊成分ヴァージニアコニインがあり、一種の神経の麻痺毒である。(中略)
つまり恋人が自分への愛を偽って誓っていたら、嘘をついていることによる緊張状態から麻痺を起こして死んでしまうのである。
目の前で不実な恋人の死ぬのを見たら、諸君はどうすべきか?
死になさい。
愛の終わりこそが命の終わりなのである。〉

 ひとつの絵とそれに付された文章を読むたびにため息をつく。人間の狡さや弱さ、そこから生まれる愚かさや儚さを観察し、抽出した情念のエキス一滴から波紋を広げるように物語を展開していく。

 それは創作であり、文学。

 私が喉の内側を掻きむしりたくなるほどの衝動を覚えたのは、恐らくは文学として、齋藤さんの作品が好きだったからだ。好きというのもおこがましいが、この衝動は「好き」以外に形容不可能。絵画でありながら文学。皮肉をこめて演歌のように人間を絵筆とペンで描く作品を前に、皮膚の筋肉は収縮。鳥の毛をむしったような肌をさすり、私は図鑑を見ながらただただ打ちひしがれていた。

――私もいつかこんな世界観をつくりたい。

 そう奮い立つよりも先に、今しばらくはこの毒々しくも美しい世界にどっぷりと身を浸していたいと思った。他人のつくった世界から学びを得ることはあっても、身を浸して心地よいと思ったことがあまりない私にとっては、このまま溺れてしまいたいほどに甘美な体験だった。きっと実在しないはずの花の毒に神経を占領されてしまったのだろう。だとしても、ここまで陶酔させてくれるなら、それも悪くない。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=Yukihiro Nakamura

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka