「物置倉庫で育った姉妹」ルポ『最貧困女子』著者による感涙必至の小説『里奈の物語』①

文芸・カルチャー

公開日:2020/1/11

物置倉庫で育った姉妹(里奈と比奈)は、朝の訪れを待ちわびた。幾つもの暗闇を駆け抜けた先に、少女がみつけた希望とは―。ルポ『最貧困女子』著者・鈴木大介が世に放つ、感涙の初小説。

『里奈の物語』(鈴木大介/文藝春秋)

第1章倉庫育ちの少女

 外を走る車の音と振動に目が覚めると、小学1年生の里奈の視野に入ったのは、クリーム色に塗られた鉄の波板だった。手を伸ばして触れれば、波板はもう火傷しそうに熱い。外ではもう、陽が昇っているのだろう。

「あー。またママ、来なかったんだ」

 ひと言呟いて、寝床に敷いていた段ボールの上で気だるそうに起き上がり、里奈は大きなノビをする。枕元では、昨日の夜にやりかけたまま寝てしまった携帯ゲーム機から、か細いゲームミュージックが流れていた。電池が切れかけて、液晶画面が白くなっている。

 足を伸ばすとその先のタオルケットの塊の中に、そろそろ4歳になる妹の比奈の柔らかい足を感じた。起きているのか寝ているのか、さらに足をぎゅっと伸ばして、比奈のわき腹を足の指でくすぐると、ヒャハハハハと掠れた笑い声が漏れた。

「比奈おはよ! 腹減ったべ? てか、まずなんか飲むさね」

 ガバっとタオルケットを剝ぎ、汗に濡れた額にまとわりつく前髪を払ってやると、比奈は小さくて真っ黒な瞳で里奈を見つめながら「飲むさね」と可愛らしい声で返してくる。里奈の胸が、ぎゅっと締め付けられたようになった。

 思わず抱きしめて力一杯頰擦りしたくなるのを我慢して、飲み物を探す。

 鉄の波板に囲まれた小さな空間は、天井につけられた白熱電球が照らしている。

 モップや四角い業務用バケツ、床用ワックスの一斗缶や大小の段ボール箱がひしめく中、ブーンと作動音を鳴らす小さな冷蔵庫と、乾電池で動く小さなテレビ、炊飯ジャー。パッキンがへばりついた冷蔵庫をバリっと開けてペットボトルを2本取り出し、比奈とふたりでラッパ飲みしながら、両開きの引き戸になった鉄の波板を開けた。

 眩しい夏の陽の光が、まだ少し眠かった里奈の頭を完全に覚醒させる。深呼吸すると、排気ガスと淀んだ生ゴミと、それを押しやるほどに強烈な夏の香りが里奈の胸を充たした。吹き渡る強い風が、服を絞れば滴るほどにかいていた汗と体温を気化熱で奪ってゆく。

 里奈と比奈がいたのは、広々とした駐車場の一角にある、物置倉庫だった。駐車場の奥には、L字をした2階建ての飲食長屋。店舗型の風俗店やパブ、ポーカー喫茶などの飲食店が軒を並べ、それぞれのネオン看板が激しく自己主張する。その中にあるスナックが、里奈たちのママの勤め先だった。

 人っ子ひとりいない店舗群の敷地にしまい忘れた看板には、〈ただいまのお時間・60分6千円ぽっきり〉と、丸い文字で書かれ、モルタルの壁には〈男子社員募集中〉というビラが、強い夏の陽に焼かれてカリカリになって、風にはためいていた。

 ここしばらくというもの、里奈と比奈はこの物置倉庫を仮の宿として、ママの仕事が終わるまで夜を明かすことが多かった。客とのつきあい酒が過ぎて里奈たちを迎えに来ないのも、珍しくないことだ。

「またかい、飲みすぎママ」
「またかい」

 里奈のぼやきを、同じく呆れたようなイントネーションで、繰り返す比奈。

 大雨が降ると水没する駐車場だから、ブロックに載せられた倉庫には少し高さがある。段差で転ばないように比奈の手を引いて脱出し、ブロック塀と緑色のフェンスで囲われた小川の間の小道を歩き出した。8月、あまり整備の行き届いていない細い道は、アスファルトの隙間やマンホールの周りからも、雑草が逞しく頭を出し、その生命力を誇示している。空を見上げれば、視界を遮るものはほとんどない。

 伊田桐市は、風が強く、空が広い街だ。

 北関東の地方都市にはありがちなケースで、江戸の昔はその広く平坦な土地と豊かな水利を活かした養蚕が盛んで、明治に入ってからは国策産業ともなった機械化紡績の拠点となった土地だ。だが戦後に紡績産業が斜陽となった後に、大規模な自動車産業や家電産業などの企業城下町となることはなく、いまはそうした大メーカーの下請け製造業と農業が地場産業の中核を占める。

 それにしても、何しろ土地が広いものだから「上に伸びる」という発想がまるでない。見渡す限りほとんどが2階建てまでの建物で、その上に少し顔をのぞかせるのは幹線道路沿いに建ち並ぶパチンコ屋やラブホテルの看板や送電線の鉄塔ぐらいだ。視界の大半を占めるのは、青空。その彼方の地平線には、低く山々の稜線がかすんで見えた。

「しょうゆぬられてだんご」

「だんご♪」

「だんご3兄弟」

「だんご!」

 歌を口ずさむ里奈の手をぶんぶん振りながら、比奈が語尾を復唱する。この夏に入ってから、比奈は里奈の言葉を一気に理解するようになり、みるみる意思の疎通が取れるようになってきている。

「だんごなんなん⁉」

「だんご? だんごは食べ物だ」

「ものだ! ひゃはははは!」

 里奈の言葉のすべてに反応して、小さな目を白黒させる比奈は、起きている間はほとんど里奈に話しかけている。まさに言葉の爆発だ。それがもう、里奈にはなんだか嬉しくてしかたがなくて、思わず顔がほころんでしまう。

 拾った棒でガードレールをカンカン叩きながら歩くと、途切れたブロック塀の向こうに雑草に覆われた借家が見えてきた。そのうちの1軒の前、室外に置かれた小さな洗濯機の横に拾った棒を突き刺すと、里奈は劣化した化粧板のペンキがあちこちで剝がれるドアをドンドンと叩く。その手に、白いペンキのかけらがたくさんついて、舞い落ちた。

<第2回に続く>