部下の耳や鼻を削いで磔の刑! 豊臣秀吉の常軌を逸した行動/『日本の歴史人物 悪人事典』④

暮らし

2020/2/18

小説やマンガ、映画の世界では、 正義のために戦うヒーローがいれば かならず敵対する悪役がいます。 歴史上でも同じように、 世の中を動かしたスゴい偉人の裏には、いつの時代も悪人の存在がありました。だから、「悪人」を知れば 教科書にはのっていない歴史の秘密が見えてくるかも――? 大泥棒、独裁者、裏切り者、詐欺師、悪女、テロリスト… 日本史上の悪人40人が大集結! こわいけれど、おもしろい。「悪人」たちの世界へようこそ。

『日本の歴史人物 悪人事典』(河合敦/ワニブックス)

天下統一を成しとげた偉人
しかし数々の残ぎゃくな行為を─

豊臣秀吉

生没年:1537~1598年
享年:61歳
出身地:尾張

 豊臣秀吉は、織田信長に仕えて大出世し、本能寺で信長がたおれた後、天下を平定した人物ですね。他の武将と異なり、戦いで血を流すことを好まず、策略や包囲戦などを用いて相手を降伏させたり、家来にしたりしました。

 ところが天下を平定するころになると、その性格が変わってしまいます。自分のことを天皇や太陽の子だと言ったり、鎌倉幕府をつくった源頼朝よりエラいと言ったりするようになります。そして、世界征服を構想し、明※をせめようと計画します。これに朝鮮が反発すると、朝鮮出兵を断行し、多くの朝鮮人を殺しました。ここでおそろしいエピソードがあります。秀吉は、日本の武将たちに敵をたおした証拠として、鼻をそぎ落として日本に送るように命じたのです。このため今でも、韓国では残こくな行為をにくんでいる人が少なくありません。

 また、妻の淀殿が妊娠したときのこと。「秀吉の子ではない」という落書きを秀吉の屋しき(聚楽第)のかべにした者がいました。これに秀吉は激ど。警備があまい! と言って、担当者17人の耳や鼻をそいで磔にして殺し、犯人をかくまった町の町人60人以上を殺害、町ごと焼きはらいます。このようにひどく残忍な人でもあったのです。

 それだけではありません。秀吉は信らいしていた茶人の千利休※と仲たがいすると、あることないこと難くせをつけて利休に死を命じました。そして、利休の首を京都の一条戻橋のたもとにさらしたのです。しかも大徳寺※の門にかざられていた利休の木像に、その首をふませる形で公開したといいます。さらし首は、罪人に対する刑罰です。ケンカをきっかけにこんなひどいはずかしめをあたえるなんて、以前の血を好まない秀吉とは完全に別人。まるで悪魔が乗り移ったかのようです。

 秀吉は、なかなかあと継ぎの実子に恵まれませんでした。そこで1591年、おいの秀次を後継者とし、関白の地位をゆずりました。

 ところが1593年、妻の淀殿が男児・秀頼を産みました。わが子に後を継がせたいと思った秀吉ですが、秀次がジャマです。そこで1594年、秀次が謀反をたくらんだとして、高野山へ追放し、切腹を命じたのです。さらに秀次の妻子ら40名近くを京都の三条河原に引き出して殺します。秀次にゆずった壮麗な聚楽第という屋しきは、秀吉の命令によっててっ底的に破かいされ、完全なさら地になってしまいました。

 このように晩年になると秀吉は、権力を維持するために常軌をいっした行動をとるようになったのです。

用語解説

【明】中国。

【千利休】安土桃山時代の茶人で、茶道の大成者。「わび」「さび」の精神を重んじる「わび茶」を完成させた。織田信長、豊臣秀吉に仕えた。

【大徳寺】京にある茶道とゆかりの深い寺。

<第5回に続く>