明智光秀に影響を与えた松永久秀ってどんな人物? 将軍殺しに主君殺し、大仏殿の焼き討ち…/『日本の歴史人物 悪人事典』③

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公開日:2020/2/17

小説やマンガ、映画の世界では、 正義のために戦うヒーローがいれば かならず敵対する悪役がいます。 歴史上でも同じように、 世の中を動かしたスゴい偉人の裏には、いつの時代も悪人の存在がありました。だから、「悪人」を知れば 教科書にはのっていない歴史の秘密が見えてくるかも――? 大泥棒、独裁者、裏切り者、詐欺師、悪女、テロリスト… 日本史上の悪人40人が大集結! こわいけれど、おもしろい。「悪人」たちの世界へようこそ。

『日本の歴史人物 悪人事典』(河合敦/ワニブックス)

将軍殺しに主君殺し、仏もおそれぬ大仏殿の焼き討ち……文句なしの大悪党

松永久秀

生没年:1510~1577年
享年:67歳
出身地:不明

 松永久秀はどこで生まれ育ったのかがわかっていません。ナゾです。でも、京都を支配する三好長慶の家臣として急激に出世していきます。1563年、長慶の一人息子・義興が急死しますが、このとき「久秀に毒殺された」といううわさが流れました。

 数か月後、長慶の弟・安宅冬康が長慶に切り殺されました。これも「冬康は謀反をたくらんでいる」と久秀が告げ口をしたからだといわれました。息子を亡くしたショックからか、翌年、長慶は43歳で死去します。この死にも「久秀が暗殺したのでは?」とうわさされました。どれも本当に久秀の仕業かわかりませんが、ふだんの行動から疑われても仕方のない悪人だったことがわかりますね。

 長慶の死後、久秀が京都の支配者となりました。そのころ、室町幕府の力はかなり弱まっていました。ところが13代将軍義輝は、越後※から上杉謙信率いる5千の大軍を京都に招くなど、力を盛り返してきたのです。これは危険だと思った久秀は、1563年、義輝の屋しきを大勢で囲んで殺害しました。当時、将軍は貴くてえらい存在とされていたのに、久秀は平然と殺したので、人びとからおそれられました。

 また別のとき。敵対する三好三人衆※が奈良の東大寺に陣をしきました。ここなら仏罰をおそれて流石の久秀もせめてこないだろうと考えたからです。ところが、久秀はためらわずに攻撃してきたのです。その結果、なんと東大寺の大仏は燃え落ちてしまいました。

 ただ、1568年、織田信長が義輝の弟・義昭を連れて大軍でやってきたとき、久秀はいち早く信長に降伏します。義昭は、兄の敵である久秀をたおすよう訴えましたが、信長は久秀を許しました。ずるがしこい久秀は、ぬけ目のない変わり身の早さを持っていたのですね。

 でもその後、大軍で武田信玄が信長をたおすため畿内に近づいてきたとき、久秀はソッコーで信長を裏切ります! 信玄有利と見たのです。でも読みは外れます。なんと、信玄が急死したのです。そこで久秀は再びソッコーで信長に降伏。今回も運よく許されました。

 これにこりて止めておけばよかったものを、またも久秀は謀反を起こしたのです。今度は上杉謙信が信長を圧迫し始めたからでした。信長に二度も命を救ってもらいながら、理解不能です。ただ、今回は降伏する気はありませんでした。このため信長は、信貴山城にいる久秀を大軍でせめ立てました。もう絶体絶命です。

 しかし生粋の悪人・久秀は、ただでは死にません。切腹する前、信長が欲しがっていた平蜘蛛という茶道具を粉々にくだいてから、周囲に火薬をまき散らし、腹を切った後に点火して爆死したそうです。悪人にふさわしい過激な最後です。

用語解説

【越後】現在の新潟県。

【三好三人衆】畿内の武将・三好長逸、三好宗渭、岩成友通のこと。

<第4回に続く>