審判をうならせた抜群のコントロール。5度のリーグ優勝に貢献した広島黄金期の立役者【北別府学】/名投手 – 江夏が選ぶ伝説の21人 -②

スポーツ・科学

公開日:2020/9/20

引退後も積極的に現場に赴き、プロ野球の最前線を見てきた江夏豊。数々の逸話を残した彼が選ぶ最高の投手たちとは? 歴史に残る大投手から、令和のプロ野球界をけん引する現役投手まで、記憶に残る名投手をご紹介します。

名投手 - 江夏が選ぶ伝説の21人 -
『名投手 – 江夏が選ぶ伝説の21人 -』(江夏豊/ワニブックス)

北別府学

 ペイ(北別府学)は、広島が初優勝した75 年秋のドラフト会議で1位指名された。入団時、広島には同じ年代で好投手が4~5人いた。「そのうちの1人か2人、将来の戦力になってほしいものだ」と、古葉竹識監督がよく言っていた。

 ペイと同じ年のドラフト会議では2位・山根和夫君(勝山高→日本鋼管福山=通算78勝)、4位・小林誠二君(広島工高=通算29勝20セーブ)がいた。

 社会人出の山根君は、80年14勝・84年16勝。サイドスローの小林君が84年ストッパーで55試合11勝9セーブ。ペイとともに古葉監督の期待に沿って優勝に貢献した。

 ペイは若いころからコントロールを意識して投げていた。頭がいい子だった。特別に速い球を投げるわけではなかったから、自分の技量をよくわきまえていた。

「低目にほおってナンボ。コースに投げ分けてナンボ」だと。

 リンゴみたいに頬が真っ赤な可愛い顔をして、ブルペンで投げている姿は、本当に野球少年というイメージだった。よく走って練習して、1球、1球を、それは大事に投げていた。

 コントロールには絶対の自信を持っていて、ボール・ストライクの判定に疑問がある場合は、寸分違わぬコースに連投して、球審を試していた。セ・リーグ審判部長の田中俊幸さんは、こう語る。言い換えれば、審判からの最大級のほめ言葉だ。

「北別府の先発試合は、他投手の2倍疲れるよ」

 

 ペイの「特殊球」はスライダーで、セ最多の通算380被本塁打。

「スライダー投手」は、被本塁打が多い宿命にある。スライダーは便利だけど、半面、危険。言わば「両刃の剣」だ。鈴木啓示さん(近鉄)は560被本塁打だし、東尾修君(西武)も412被本塁打だ。

「球の回転」がストレートより少ない分、高目に浮くと棒球になってしまう。だから「変化球のスッポ抜けは遠くに飛ばされる」というのは、このことだ。

 しかも、シュートは打者に恐怖心があって踏み込めないが、スライダーは思い切って踏み込める。打者はバットのヘッドを回すだけでも打球は遠くへ飛んでいく。

 さらに、もう1つ怖いのは「スライダーを投げた次のストレート」が、どうしても甘くなる。人差し指と中指でしっかり球を「切っている」うちはいいが、スライダーを「置きに」いった感覚で、次のストレートを投じると、どうしても高く球に力がないから本塁打される。

 とはいえ、ペイはプロ3年目の78年から11年連続2ケタ勝利。特に79年17勝、80年12勝、84年13勝、86年18勝、91年11勝と、実に5度のリーグ優勝にエースとして貢献。「広島優勝の申し子」のような投手だった。

 中でも86年は9月〜10月に7連勝し、巨人を抑えての逆転優勝の原動力になりMVP。そのシーズンはリーグ最多の17完投をマークしながら、優勝を決めた試合は8回終了時に首脳陣に直訴して津田恒実君にマウンドを譲った。

 脳腫瘍により32歳の若さで生涯の幕を閉じることになった「炎のストッパー」津田君の唯一の「胴上げ投手」の栄誉だった。

<第3回に続く>