「安心と信頼は違うもの」人との関わりを耕してくれる鍬のような手の倫理【読書日記30冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2020/10/26

2020年7月某日

 いわゆる性的な接触よりもずっと、ただただ身体に触れているのがいい。
 それも、「表面」でなく「外側」を、撫でるように触れるのが。

 ある夜と朝の狭間に、そんなことを想った。

「こっちよりも、こっちのほうが気持ち良くない?」

 身体の表面と輪郭に手を滑らせながら感覚を訊くと、その人は「全然違うね、こっち(側)のほうがいい」と言った。触覚なんて不確実なものが伝わっていて、何だか通じ合えたようで舞い上がってしまう。

「なんでなのかなぁ」とボールを投げると、「ちょっと考えようよ」と返ってくる。裸で布団に寝ころんだまま、ふたりして真剣に考え始める。私はこの時間が好きだ。夜と朝の間の、非日常と日常の、友愛と性愛の間。

佐々木ののかの読書日記

 身体を壊してから世の中への恐怖心が増し、信頼できる人が限りなくゼロに近くなって、男友達に関してはたったひとりきりになった。頼りにしたいと思える人が他にいないので、何もかもを明け渡したいと思うようになり、身体ごと預けてみることにした。男の人と話しているだけで嫌な汗が噴き出して震えが止まらなかった時期に身体を預けるのは身投げのようなものだったが、投げてしまえば落下するだけで、あとは受け止められるか地面に叩きつけられるかのいずれかなので身投げ自体は簡単だった。投げてみたら受け止めてもらえてうれしかった。それで、こんな関係が続いている。

 付き合いたいと思うこともあった。

 正直に言えば、「付き合う」がどういうことを指すのか、年齢を重ねるごとにわからなくなってはいる。でも、「付き合う」があれば、安心できるような気がしていた。彼のことは好きだったけれど、毎度これきり会えなくなるんじゃないかという不安が付きまとった。彼を拘束したいのかと訊かれると、首を縦には振りにくいが、実際そういうことなのだろう。

 呪縛のような「付き合う」が是であるはずもなく、毎度律儀に断られ続けた。

 何度目のアタックのときだったか、どうして付き合いたいのと訊かれたことがある。無礼を承知で「安心したい」と振り絞るように答えると、彼は「安心で思い出したんだけど、伊藤亜紗さんという方がね」と話し始めた。伊藤さんがTwitterに書いていた「信頼」と「安心」のお話がおもしろかったのだという。それを聞いたとき、私の彼への気持ちは「信頼」で、それを「安心」に変えたくて付き合いたいのだと合点がいったのだった。

 そして、そのときに彼が教えてくれた話とは、後に『手の倫理』(講談社)にてもう一度邂逅することになる。

手の倫理
『手の倫理』(伊藤亜紗/講談社)

『手の倫理』は、触覚を通じた「人との関わり方」に主眼を置いた思念が敷き詰められた本で、第1章「倫理」、第2章「触覚」、第3章「信頼」、第4章「コミュニケーション」、第5章「共鳴」、第6章「不埒な手」の6章構成で論が展開されていく。

 目の見えない人や耳の聞こえない人、四肢が切断されてしまった人など、さまざまな障害とともに生きる人がその身体とどのように付き合っているのかインタビューしながら研究を進めている伊藤亜紗さん。彼女の“触覚の視点”は、内側へ、内側へと染み込むように、これまでの人間関係を耕し直してくれる鍬のようだ。

 どの章も学びが多かったけれど、私が最も感銘を受けたのは、やはり第3章である。第3章の「信頼」では、安心と信頼の違いが語られている。

 伊藤さんによれば、「安心」とは社会的不確実性がない状態、すなわち完全にコントロールできている状態のうえに信じることで、その逆説を埋めるのが「信頼」だという。社会的不確実性が“あるにも拘らず”信じるのが「信頼」と言い換えてもいいかもしれない。

 つまり、私が先の彼と「付き合いたい」と思った背景には、ふたりの関係における不確実性を薄めたい(≒安心したい)という思いがあるのだ。でも、生身の人間に安心したいと思うことは、相手に何かを約束させるようで、グロテスクなことを求めているのではないかと思って落ち込みもした。

 同章で紹介されている「信頼」と「安心」を表す一例に、架空の機械「針千本マシン」がある。嘘をついたり約束を破ったりすると、千本の針が喉に自動的に埋め込まれる針千本マシンを使えば、多くの人は嘘をつかない、というものだ。

 そうした確信が周囲の人に安心をもたらすように、「付き合う」という約束もまた、信頼のない空虚な安心になってはしまわないか。あるいは、相手が感情を持った人である以上、「安心」することなどできないのではないだろうか。

 この章の中で紹介される信頼と安心の例のひとつに、15歳で網膜色素変性症を発症し、19歳で全盲になった女性の話がある。その女性は、盲導犬とふたりで温泉旅行をし、旅先で迷っても見知らぬ人に助けてもらい交流するなど、明るく好奇心旺盛な人だ。

「平坦で安全なところばかり通っていると、自分だけで情報をキャッチしなくちゃいけない」と言い、「快適はかえって人を孤独にしますよ」とも言う。そうした言葉の端々から、彼女が冒険心に溢れ、自立した強い人なのだということが伝わってきた。

 目が見える状態で、尚且つ見知った人に、頼ったり触れられたりするのも相当に勇気がいる。それでも、相手を信じ、「だまされる覚悟で委ねる」行為の勇敢さたるやと考えても、想像力が及ばない。私なら怖くて、たとえば家に引きこもるとか、人に頼らなくてもいいような状況に甘んじ続けてしまいそうだ。

 ほかにも親や身近な人を頼り、「安心」できる環境にのみ身を置く方法もあったはずだ。でも、身近な誰かに、“もしものこと”があったときに、ひとりで生きていけなくなる。だから“冒険派”の彼女が、街全体に依存先を分散させる自立の仕方を選んだのは、サバイブしていくために必然だったのだろう。

 しかし、不確実性を乗り越えるために、無理にでも生み出してきた「信頼」は、かえって特定の人を深く信頼することの妨げになる可能性もある。実際に、その女性は自分を愛してくれる夫となった人を深く信じることができず、「安心」するまでに3年もの月日を要したのだという。

「夫がいなくなったら、自分の生活が立ち行かなくなるのではないか」
「特定の人を深く信頼することが危険なのではないか」

 そうした「もしも」が、自分にストッパーをかけてしまう。そんな状況は「言わば、人にふれられる瞬間の緊張が、解けずにずっと続いている状態」だと、伊藤さんは言う。

“先に指摘したとおり、ふれる/ふれられる接触の瞬間は、相手のリアクション/アクションが分からないため、緊張の度合いは否が応でも高くなります。けれども、相手を信頼し、実際の接触が始まってしまえば、多くの場合、不確実性は減少していく。そして、「ふれるときふれられている」という相互のなかで、緊張は次第に安心に変わっていくものです。”

 そして、最後には「本当の『安心』がやってくるのは、この不確実性が脳裏から消えるときです」とも、付け加えられていた。

――相手が他者である限り、不確実性は常に存在する。そうである以上、「安心」は存在しえない。

 私はそんな風に思っていた。

 けれど、不確実性が脳裏から消えている状態のことを「安心」と呼ぶならば、私は瞬間的であっても、すでに安心を味わっていたのではないか。

 話の冒頭に戻って、大事な人に身を委ねて、「外側」を撫でてもらう/撫でることには「ここからここまでがあなたです」と世界と自分の間に線を引くような心地がしていた。まるで、輪郭を新たにしてもらう/させてもらうように。

 双極性障害Ⅱ型で入院した與那覇潤氏の言葉を引用して、伊藤さんはこんな風に書いている。

“うつになった人が布団をかぶって閉じこもるのは、『いまある自分の身体というかたちの、自己の輪郭をもういちどはっきりさせようという衝動が、そういう行為をとらせたのではないか』”

 自分の輪郭を見失い、不安になったときに何かに包まれたり、抱きしめられたり、触れられたりすると、安心したり、何か確からしい感触を覚えたりする。

 だとすると、私は身体に触れたり触れられたりしていたあの時間だけは、不確実性を意識せずに「安心」していたのではないか。

 安心の関係は信頼の関係同様に、永続するとは限らない。この不確実性こそが、私たちの「信じる」にストッパーをかける。けれども不確実性、すなわち終わりを意識せずに済む「安心」とは一瞬であっても、あるいは一瞬であるからこそ純然たる真実で、永遠なのではなかろうか。そう思うと、刹那の安心に飛び込む勇気も湧いてくるような気がするのは、私だけだろうか。

文・写真=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=酒井直之

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。
Twitter:@sasakinonoka