田舎のマドンナだった母さん。弁論大会で力強く語る姿に父さんは一目ぼれをした/84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと④

文芸・カルチャー

公開日:2021/5/14

84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと』から厳選して全4回連載でお届けします。今回は第4回です。作家・辻仁成氏が自身の母の半自叙伝を、豪快な秘話とともに書き下ろした泣き笑いエッセイ集。心に響くとツイッターで大反響! 母の愛と人生訓にあふれた一冊です。

「84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと」を最初から読む


84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと
『84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと』(辻仁成/KADOKAWA)

スーパーウーマンの涙

 母さんはどんな人だったのだろう。

 若い頃、母さんは田舎の郵便局のポスターに写真が使われたことがあるようで、父さんだけじゃなく、母さんが生まれた島の男子たちの憧れの的、これは母さん曰くなのでちょっと眉唾な話だけれど、いわば、田舎のマドンナ的な存在だったらしい。

 他に好きな人がいたというのに父さんが結納金を握りしめて強引にやってきて半ば略奪するような感じで結婚させられたのだとか……(※あくまでも母さんの言い分であり、父さんに確認できたわけじゃない)。

 父さんはと言うと、ずんぐりとした体形で、とてもハンサムとは言えないごつごつした顔立ちだった。

「ね〜、ママはどうしてパパと結婚したの? パパは子熊みたいなのに」

 と弟が訊くので、ぼくは笑いを堪えるのに必死であった。

「それに、パパは頭のてっぺんに毛が無いし」

 ぼくはついに噴き出してしまった。

「しょうがなかったのよ。突然やってきて、親同士で決めてしまったんだから」

 ぼくは驚いた。そんなことがあり得るのか、と。

 親同士で人の人生が決められる世の中にぼくらは生きているのか、と思ってしまった。

「それでよかったの? 郵便局のマドンナだったんでしょ?」

 ぼくは二人の話に割り込んだ。

 母さんはため息をこぼし、肩を竦めてみせた。

「なりゆきというのが人生にはあるのよ」

「なりゆき?」

「そのことはまた今度」

 母さんは話をはぐらかしてしまった。

 なりゆきという言葉が頭の片隅に残ってしまう。

 母さんは本当に田舎のマドンナのような存在だったんだよ、と教えてくれたのは親戚のおじさんであった。

 子供の頃から池坊でお花を習い、その腕前も大人をうならせるほどだったとか。

 それだけじゃない。母さんは弁が立った。

 おじさん曰く、

「恭子はね、昔から、言葉が立った。あの子を論破できる男はいなかった」

 論破の意味がその頃はわからなかったけれど、ロンパという響きから想像し、相当なことに違いないとぼくらは思っていた。

「恭子は高校生の頃に、名古屋で開かれた全国弁論大会に福岡県代表として出場しているんだ」

 中学の修学旅行直後の報告会で喋らされたのがきっかけだったのだとか。

 本人は普通に報告をしていただけだったが、その言葉の一つ一つに説得力があり、当時の担任がそれを校長先生に報告した。

 当時、中学や高校には、だいたいどこにでも弁論部があったらしい。

 そこは利発な子たちの発表の場だった。

「私はこう思います。人間とは……」

 みたいな感じで、子供たちがハキハキと持論を展開する場所だった。

 母さんは中学生ですでに子供弁士のような存在だったという。

 講堂に集まった全校生徒を前に壇の上に登って、マイクの前で原稿用紙を開き、大きな声で弁論をしたのである。

 弁論部に所属し、校長先生のお墨付きをもらい、九州大会に出場し、まず3位に輝いた。

 田舎のマドンナで九州大会3位なのだから、学校もほっとかない。

 母さんはあちこちの集会、青少年財団だとか、子供勉強会だとか、新聞社主催の講演会、他校との弁論試合だとかに招かれ、スピーチをし続けた。

 母さんが壇上に上がると、若い男子生徒たちがざわついたのだと、先のおじさんがニヤニヤ笑いながら回想した。

 郵便局のポスターになり、弁論部で九州大会3位なのだから、ざわざわするのも当然である。

 高校に上がると、学校側からの勧めもあり弁論部に所属し全国大会を目指すようになる。

「母さんはなんについてそこで喋ったの?」

 のちに聞いたことがあったが、母さんは、忘れた、と話をしたがらない。

「たしか、強く生きよう、とか、希望をなくすな、とかそういう重たいテーマだったと思うよ」

 父さんがぼくにこっそりと教えてくれた。

 戦後すぐの、昭和24、25年とか、そういう時代だったし、母さんは苦しむ日本を代表するような勢いで壇上に登っていた。敗戦で苦しむ人々に希望を与えようと、前向きに強く語っていたらしい。

「内容もよかったと思うけど、あの気迫だったと思う。母さんには人のこころを鷲摑みにする迫力と強い説得力があったんだ」

 父さんは他校、福岡県立三潴高等学校の生徒だったけれど、母さんのうわさを耳にし、地元の弁論大会を見に行ったことがあったのだ。

 父さんが母さんに一目ぼれしたのは、その時だったのかもしれない。

「それはカッコよかったよ。自分の意見をここまで言える女の子なんか見たことがなかった。戦争が終わったばかりの時代だったし、みんな打ちひしがれていた時に、人間は強いこころをもって生きなければならないって、小さな女の子が大きな声で力説していたんだからね」

 だからなのか、と思ったことがあった。

 母さんと父さんは滅多に喧嘩をしなかったが、口喧嘩なら圧倒的に母さんが上だった。

 父さんはもともと口数の少ない男だった。

 人前でなにか喋らせるならば圧倒的に母さんの方が優勢であった。

 いつのことだったか忘れたが、悪い人がいて、みんなに迷惑をかけていた。

 借金をしたり、人をだましたり、挙句の果ては誰かに暴力をふるったり。いわく付きのチンピラで詐欺師であった。

 その人を説教する、改心させなきゃ、と父さんが立ち向かった。

 でも、口下手な父さんはその男に言いくるめられてしまった。そこで横にいた母さんが前に出て、

「あんたね、人間のこころはないのか、多くの人があんたの行動で苦しんでいるのがわからないのか、自分に非があるとなぜ認められないのだ、人間としてのこころはないのか」

 と糾弾をしたのだとか。

 母さんの妹が、

「恭子姉さんの迫力にあの人はタジタジだったよ。その時、周りにいたみんながスカっとしたんだ、ほんとにかっこよかった」

 と目を輝かせて誇らしく語った。

 母さんは怖い者知らずの小さな、でも、強い九州の女であった。

 ぼくは幼い頃、悩める若いおじさん(大学生だったと思う)が母さんに説得されていたのを目撃したことがある。

「あんたの考えは甘過ぎる。生きるということは、死ぬということだ。死ぬことを疎かに考えているかぎり、君はちゃんと生きることができない。死にたい死にたいと騒ぐのは君がちゃんと生と向き合っていないからだ。生きることを疎かにしているからだ。なめているからだ。そういう人間が死を安易に口にするのはけしからん」

 父さんはそういう母さんにほれたのである。

 全校生徒を前に力強く語っている母さんを見て一目ぼれしたのである。

 弁士である母さんは見初められ、二人は結婚することになった。

 でも、それで母さんはよかったのだろうか?

 略奪結婚は言い過ぎにしても、父さんが一方的に母さんを求めたのだとして、弁論大会の全国大会に出場する女が、そんな結婚をなぜすんなり認めたというのか、ぼくにはわからない。

「なんでパパだったの?」

 ぼくが訊ねると、母さんは恥ずかしがりながら、

「ママには他に好きな人がいたんだけどね」

 と告白した。

 えええええ、とぼくとつねひさはひっくり返りそうになった。

「じゃあ、なんで?」

「でも、そういう時代だったの。ぼくと結婚するんです、と最初に言った男の人が一番だったのよ。そういう時代だった。そして、私の前にやってきて、ぼくと結婚するんだ、君は、とはっきりと宣言したのは後にも先にも父さんだけだった。言ったもの勝ちだった。そういう田舎だったのよ」

 という言い方ではぐらかされてしまった。

 こんな言い方をしているけれど、きっと母さんはそういう父さんのことが好きだったのじゃないか、と想像する。

 略奪でもされないとこういう強い女は逆に満足できなかったのかもしれない。

 いや、きっとそうだ。

 すくなくともその結果、ぼくが生まれることになった。

 ぼくはそう信じたい。

 

 母さんの父、今村豊は発明家で、戦時中は鉄砲の開発をしており、鉄砲屋豊と呼ばれ、地元では名士であった。

 父さんの方は地主の家系だった。

 今村豊は戦後仏教に帰依し、海苔の巻き上げ機、乾燥機などの開発に携わった。

 祖父のことは拙著『白仏』に譲るとして、祖父が一代で築き上げた今村製鉄所は中九州一円で成功をおさめ、その大規模な工場群、巨大なクレーンなどの近代的な設備、物凄い数の従業員、そこで陣頭指揮をする勇ましい祖父の姿は今も脳裏から離れることはない(現在もまだ今村製鉄所の名前は存在するが、祖父の死後、兄弟たちの経営はうまくいかず、当時の面影は残っていない)。

 祖父はモノづくりの天才だった。

 母曰く、戦後まもなくおじいちゃんはトラクターの元になる自動三輪の耕運機を開発し、畑で乗り回していたのよ、ということだった。

 海苔は昔、手摘みだった。おじいちゃんは巻き上げ機を開発し、有明海の海苔は手摘みから機械による巻き上げへと新しい時代へ移りかわっていく。

 その後、今村製鉄所はバカでかい海苔の乾燥機を開発した。

 収穫した海苔をベルトコンベアーに載せると、四角い板海苔が出てくるという、中型トラック並みの、小さなぼくが見上げても全貌がつかめないほどに大がかりな機械であった。

 その血を継いでいるからか、母さんにはいろいろな才能があった。

 ぼくは子供ながらにこの人はただものじゃない、と思っていたが、同時に、その才能は父さんには煙たかった。

 とくに弁士だったこともあり、声も大きく、説得力があり、はっきりと意見を言ったし、その一つ一つがツボを押さえていたので、祖父以外、母さんに敵う男などいなかった。

 言い合いになると母さんが圧倒した。でも、母さんのいいところは父さんを追い込まないところにあった。

「ひとなり。人間は他人に対する尊敬の念が一番上にある。どんなに自分の方が弁が立っても、相手を追い込んではならない。どんなに自分が正しくても仲間を理で封じ込めてはならない。それはしょせん、言葉に過ぎない。大事なことはお互いを尊敬しあうことだ。言葉で勝つのではなく、こころで和解しなさい」

 これ以上は言わない方がいいというところで、見事に黙り、その後は父さんに一方的に叱られてみせたが、弟もぼくも母さんの理の方が上であることを十分にわかっていた。

 もし、母さんが政治家になっていたら、とよく想像をした。

 実際、祖父も叔父も地元の市会議員などをやっていたので、母さんの家系は口が達者なのかもしれない。