特別試し読み第2回/『ミルクとコロナ』白岩玄・山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/4

他に大切な瞬間がある 山崎ナオコーラ

ミルクとコロナ
イラスト:山崎ナオコーラ

 もしも、もうひとりの親が子どもを産むことになって、私が立ち会いするとしたら、なんと声をかけるだろうか? 私も、白岩さんと同じように「がんばれ」と言って、「うーん、これでいいのかなあ」と心の中で思うような気がする。確かに、最近の日本では、「がんばっている人に向かって『がんばれ』と声をかけるのはプレッシャーをかけるだけで意味がない」ということがよく言われる。でも、苦しんでいる人の隣りで、ぼーっとしているわけにはいかないし、何かしら喋らなければいけないだろう。「がんばれ」以外に、軽くて、ポジティブで、相手を思い遣っている感じが出る言葉がなかなか浮かんでこない。

 

 特別養子縁組、普通養子縁組、里親制度などの方法もある。ただ、現状では妊娠、出産を経て親になる場合が多い。

 妊娠や出産をすることになったとき、神秘的なシーンとして、妊娠中の過ごし方、出産のやり方にこだわる人もいると思う。

 ただ、私の場合は、妊娠、出産がそれほど重大なことには思えなかった。正直な気持ちを書くと、楽しくなかった。生まれてからがとにかく楽しい。だから、妊娠の仕方、出産の仕方に対しては、「どうでもいい」というのが素直な気持ちだ。

 

 ここで、自己紹介的なことを書いておいてもいいだろうか。性別についての話がこれからも出てくると思うのだが、私は女性を代表して文章を書くことができない。まず、私は性別を公表していない。なんとなくはバレているだろうが、はっきり書きたくない。私は社会的なシーンで自分の性別を定義することをつらく感じてしまうのだ。子どもの頃から、申込書などに性別を記入しなければならないとき、苦しさを覚えてきた。パスポートに性別欄があることにも憤りを覚える。私は、たぶん異性愛者で、服装は「女性らしい」と言われるようなものをまといがちだ。でも、なぜか、社会に出たとき、仕事をしているときに、自分は「女性なんだ」と思うと、恐怖や気持ち悪さでいっぱいになる。自分を女性的に表現したくない、という思いが腹の底から湧いてくる。こういった私を、「無理にそうしようとしている」「常識に流されずに、小さなことでも自分を通そうとしている」と捉える人もいるかもしれないが、そうではない。「力を抜いて、自然にして、できるだけ周りに波風立てずに生きていきたい」と考えているのに、小さなことでつまずいて、怒ったり泣いたりしてしまうのだ。私としては、これは生まれつきの性格のせいだと思う。育った環境によるものや、容姿が悪いからそういう考えになったという部分も完全には否定できないが、自分としては、「生まれつきの性別感覚」という理由が大きいように感じている。私は生まれつきノンバイナリージェンダーなのだ。

 おそらく、性別について何か意見を言いたいと思っている多くの方が、「女性」「男性」という区別には馴染むことができている。女性の貧困、女性への暴力、女性の社会進出、といった問題に取り組んでいらっしゃる方は、「女性」というカテゴライズには馴染むことができている。「差別は駄目だが、区別はするべきだ」という考え方をする人がマジョリティなのではないか。同性愛者の方や、トランスジェンダーの方も、「女性」「男性」という概念には馴染める方が多いと思う。

 しかし、私の場合は、差別ではなく、区別に苦しんできた。親や学校から、男の子より下だ、男性と同じ権利がない、といった扱いはあまり受けなかった。結婚後は、もうひとりの親が意見を言いやすいように、こちらが優しくするように、配慮を心がけている。そして、作家として仕事をしているときに、男性よりも仕事がしにくい、評価されにくい、ということはそんなに感じない。むしろ、萎縮している男性をよく見かけるので、男性の声に耳を澄ます必要があると思っている。つまり、自分の立場が下であったり、権利がなかったことに、私は苦しんでこなかった。そうではなく、「男と女は違う、と言われるのが苦しい」「男と女という概念がつらい」というのが私の感じ方だ。私の性別の悩みは、決して「女性のことを、男性に理解させたい」「女性の地位を向上させたい」ではなくて、「男性と女性を分けないで欲しい」「同じ人間として扱って欲しい」なのだ。

 このことが、多くの読者と乖離してしまうのではないかと恐れている。

 怒る方もいるのではないだろうか。「男性の育児参加を促すことを書いて欲しい」「女性のつらさを代弁して欲しい」という人もいるに違いないが、私にはそれが書けないのだ。

 しかも、私の場合は、体調や他の家族のおかげで、育児が楽しい。以前、「育児が楽しいと書かれると困る」と言われたことがある。「女性は男性と違って大変なんだ」という文章を待っている人がいる。

 それでも、私は自分が思っていることを書くしかない。作家の仕事は、社会の分析よりも、個人の心を正直に書くことの方に重きがあると私は考える。読者には、「こういう人もいるんだな」というところを面白がってもらうしかない。また、私は自分の考えで社会を染めたくない。エッセイは、読み物として楽しんでもらいたいと思って書いている。そして、私はいわゆる「女性問題」で苦しんでいる方を軽視していない。女性の貧困、女性への暴力、女性の社会進出については、私ではない人がきちんと仕事をしてくれている。だから私は書いていないだけだ。また、誤解しないで欲しいのだが、「私は、苦しんでいない」と私は書いているだけで、「女性は、苦しんでいない」とは書いていない。それから、女性らしい生き方をしている人を否定することは絶対にしていない。女性らしい仕事をしている友人もいる。私にはできないというだけだ。「多様な人がいるね」というだけのことだ。

 

 話を戻したい。

 なんでもそうだが、希望通りの出産体験ができなかったならば、あきらめたり、忘れたりするしかないのではないか。

 私は、いわゆる「出産」というものを一度しているが、「出産」という言葉をあまり使っていない。どうしてかというと、私の方法は予定帝王切開だったため、陣痛を経験しておらず、私はがんばらず、医者ががんばって腹を切って赤ん坊を取り上げてくれたため、私としては、「このことは、出産というよりも、手術と表現したいな」と思ったからだ。もちろん、大変だったり痛かったりする帝王切開をしている人もいる。陣痛のあとに帝王切開になる場合もあるし、人それぞれなので、帝王切開を一概に簡単なものだと思わないでほしい。ただ、私の場合の感じ方としては、痛みも少なかった。医学万歳、お医者さん素敵、という感じで、帝王切開できて本当に良かったと私は思っている。

 当初はもうひとりの親も私も立ち会い出産を希望していたのだが、妊娠後期に前置胎盤が判明して予定帝王切開でしか産めないことになり、私たちの病院は帝王切開の立ち会いはできなかったため、立ち会いはあきらめ、こうなった。

 今、子どもは二歳になったが、出産のときを思い出すことはほとんどない。

 妊娠や出産よりも、育児の方が断然楽しい。

 二人で親になって育児をする場合、二人のうちのどちらかしか妊娠、出産を経験しないことがほとんどだろうが、育児は二十年ぐらい続くものだし、どっちが産んだかなんてそのうち薄れる。

 死が臨終の瞬間などどうだっていいのと同じで、生も生まれる瞬間などたいした問題ではない。他に大切な瞬間がいくらでもある。

 もちろん、大事にしたい人は大事にしたらいい。でも、私の場合は、出産に重きは置かなかった。

 子どもはプラレールにはまり、電車や新幹線の名前を次々に覚え、電車と共に今日も楽しく生きている。

『ミルクとコロナ』「before corona」より

<第3回に続く>

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