特別試し読み第5回/『ミルクとコロナ』白岩玄・山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/7

 白岩玄・山崎ナオコーラ著の書籍『ミルクとコロナ』「before corona」「under corona」から、厳選して全6回連載でお届けします。今回は第5回です。「野ブタ。をプロデュース」の著者・白岩玄さん、「人のセックスを笑うな」の著者・山崎ナオコーラさん。2004年、ともに20代で「文藝賞」を受賞し、作家デビュー。子どもが生まれたことをきっかけに、育児にまつわるエッセイの交換を始める。約4年間にわたって交わされた子育て考察エッセイ!

ミルクとコロナ
『ミルクとコロナ』(白岩玄山崎ナオコーラ/河出書房新社)

妊娠や出産は、親子関係を築くのか? 山崎ナオコーラ

ミルクとコロナ
イラスト:山崎ナオコーラ

 私は今、二人目を妊娠中で、来週に出産の予定だ。四十歳という高い年齢なので、「どうなるんだろう?」と、ちょっとどきどきしている。出生前診断はしておらず、すべてを受け止めるしかない。でもなんとなく、受け止められるような気がしている。二人目になると、心が雑になってきて、「まあ、どうにかなる」という気持ちが根拠なく浮かんでくる。ひとり目のときは、「障害」のある子が生まれる可能性について本などで調べ上げたり、「こういう可能性はどのくらいなのか?」「育児の方法は?」など、インターネットで検索しまくったりしたが、今は、生まれたあとに最善を尽くす、としか思えない。人は、生まれるものだ。その人がどういう人かということに、こっちは関与できない。こっちは、ちょっと腹を貸し、成長の手助けをするだけだ。

 前回の出産が前置胎盤のために帝王切開になり、同じ病院で産むのだが、この病院では、前回が帝王切開だとその後の出産は必然的に帝王切開になるということで、今回も予定帝王切開だ。また、この病院では、帝王切開だと立ち会い出産はできないので、もうひとりの親は待合室にいることになる。

 もうひとりの親がかわいそうにも思える。出産できないし、出産の場にもいられない。

 この頃は、胎動が激しくなり、赤ん坊が生きている感をかなり味わっている。もうひとりの親はこれも味わえない。

 でも、つわりがあるだとか、胎動を感じるだとか、出産の痛みがあるだとかは、やっぱり、親としては大したことではない気がする。胎動というのは、ちょっと動いた、というのを感じるだけのことなので、人と人との交流と言えるほど大きなものではない。腹を蹴られたからどうだというのか。

 私は、「育児や仕事に関し、男女にできることの差はない」と思っている。あるとしたら授乳のみだ。ただ、液体ミルクが解禁されたし、粉ミルクだってあるし、搾乳器や哺乳瓶など、いろいろと商品が開発されているし、授乳期間は一年くらいが現代日本では一般的で、しかも五ヶ月くらいから離乳食を始めるし、長い育児期間を思えば授乳期間は短いもので、「母乳が出る」ということが親業の大きなことには思えない。授乳を理由に、「女性の方が育児に向いている」と捉えるのは難しいだろう。私の経験から言わせてもらえば、性格や能力に性差はない。女性脳だとか男性脳だとかといったものを分析するような本が数十年前に何冊も出版されて、私は気分が悪くなったが、最近、「ああいうのはエセ科学だ」という意見があちらこちらで出ているのを見かけて、「やっぱり」とニヤリとした。女性と男性には大した違いがない。個人差の方が断然大きいのだから、性差を気にして親業や職業を分けるのは理に適っていない。

 やがては男性が子宮を移植して行う妊娠や出産も夢ではない未来がやってくる。でも、それは結構先のことで、私が生きている間には無理なんじゃないだろうか。

 男性は、こういうことをどう考えているのだろう。妊娠や出産ができることに対して「うらやましいな」と思うものなのだろうか。

 白岩さんは、どうですか?

 

 私の場合、ひとり目の子が三歳なのだが、この子との付き合いは生まれてから始まったと思っている。喋るようになってさらに交流が深まり、これから本格的な人付き合いになっていくだろう。そして、本人の記憶の方は、まさに今頃から残るようになっていくのだろうし、本人が思う「親との付き合い」は、これからなのかもしれない。

 でも、角田光代さんの『八日目の蟬』では、生後六ヶ月の赤ちゃんをこっそりさらった女性が四歳頃まで育て、親になっていた。その子が大人になったとき、四歳までの記憶は残っていないみたいだった。妊娠や出産をしておらず、本人の記憶にも残っていない。だが、たぶん、この女性は親だ。

 親は何人いたっていいし、期間が限定されていたっていい。

 あとそれから、今回の妊娠は私にとって三回目で、一回目は流産したのだった。私を親にしてくれたのは最初の子だと思っていて、今も、稽留流産の手術の記念日あたりに毎年神社へお参りをして、そのとき、「親にしてくれてありがとう」と心の中で言っている。ということは、妊娠して親になったという意識が私にもあったということだろう。

 いろいろ考えると、「親になる」というのは、こういうことを経験するとなれる、こういう絆を結べばなれる、と定義できるものではなく、人それぞれで、その人がそう思うときに親子になる、というものなのかもしれない。

 映画『そして父になる』は、病院での出生時の取り違えの問題を扱った映画だが、血の繫がらない六歳の息子に対し、ある瞬間から主人公の男性が親になった。

 

 そういうわけで、まあ、妊娠中に親になることもあれば、数年経ってから親になることもあるのだが、とにかく、私としては、妊娠や出産を、「育児に必要不可欠なもの」だとか、「良い経験」だとかというふうに捉えることには反対だ。

 よく、妊娠や出産を、「神秘的」「聖なるもの」と言った捉え方をしているセリフや文章を見かけるが、これは妊娠や出産ができない男性が、妊娠や出産を自分と切り離して捉えるために出した表現のように思える。私としては、妊娠や出産は、子どもを世に送り出すための単なる仕組みに過ぎないと感じられ、神秘的といった感覚はまったくない。

 妊娠や出産は、育児にも、人生にも、人間関係作りにも、必要不可欠なものではない。妊娠や出産をしなくても親になれる。妊娠や出産をしない男性には、あまり引け目を感じずに過ごしてもらえたら、と思う。

『ミルクとコロナ』「before corona」より

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