特別試し読み第5回/『ミルクとコロナ』白岩玄・山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/7

向き合えば勝手に親になる 白岩玄

ミルクとコロナ
イラスト:白岩玄

 女性が妊娠や出産ができることをうらやましく感じたことがあるか、という質問だが、うーん、正直なところ、まったくない、というのがぼくの答えになる。

 たしかに、お腹に子を宿さないがゆえに得られないものはあった。胎動は当然感じられないし、妊娠初期の頃なんかは、妊婦健診で産院に付き添っても、「旦那さんはこちらでお待ちくださいね」と止められて、エコーは見せてもらえなかったりする。そしてあとから写真を渡されて、「心臓が動いてたよ」と妻から報告を受けるだけなので、そういうのが若干除け者感というか、寂しさを感じたことがあったのは事実だ。

 ただ、だからと言って、妊娠や出産を自分が体験したいかというと、したいとは思わない。やはりつわりはしんどそうだし、命の危険や激しい痛みを伴うお産は怖いという気持ちが先に来る(もっとも、あまりにもつらそうな妻を見て、かわってあげたいと思うことはあったが)。だからもし今、医療の飛躍的な進歩があって、男性が子宮を移植して妊娠や出産ができるようになったとしても、ぼくは及び腰になると思う。妻から「次の子はあなたが産む?」と訊かれた自分が、「産む産む!」と前のめりになって目を輝かせる姿は想像できない。

 女性からすると、「あんたがそれだけ及び腰になることを、私たちは『たまたま女性に生まれた』という理由だけでやっているんだ!」と怒りたくなるかもしれない。それにかんしては本当にその通りだし、申し訳ない気持ちしかない。

 そういえば、息子がまだ新生児だった頃、「自分にもおっぱいがあればな……」と思ったことがあった。オムツ替えや沐浴や寝かしつけといった授乳以外のあらゆる世話ができたとしても、妻が用事で出かけるなどして一人で子どもをみていると、どうしてもおっぱいの力を借りたくなることがある。自分が母乳を出せればもっと楽になるのになぁと、そのときはけっこう真剣に思っていた。

 でもその気持ちだって、今となっては完全に沈静化してしまっている。授乳中の妻が、歯が生えてきた息子に乳首を嚙まれて悲鳴を上げているのを何度も見たり、女性の胸を取り巻く様々な悩み(形の変化や、そもそもの大きさに対するコンプレックスなど)を間接的に聞いていると、やはり「大変そうだな」という気持ちの方が大きくなって「ない方がいいや」という結論に至ってしまう。

 だから、妊娠や出産については、子宮を模したカプセルの中で胎児を育てられるようになればいいのにと本気で思う。もちろんそこには、たとえ医療が発展しても自分が担いたくはないという保身の気持ちがあるのだが、それ以上にパートナーをつわりで苦しませたくないし、出産を命がけのものにしたくない。だいたいお腹の中で育てることや、痛みを乗り越えて産むのが愛情、みたいなのは、社会によって作られた信仰である部分が大きいのではないだろうか。妊娠や出産を「神秘的」とか「聖なるもの」だと捉えるのも似たようなものというか、産む人がそう思うのは構わないが、社会がお産を神聖化したら、人はそこから痛みと死を永遠に切り離せなくなってしまう。

 でも山崎さんも言っていたように、ぼくが生きているうちにそういった新しい産み方が選べるような未来が来る可能性は低いだろう。となれば、現状は女性に産んでもらうしかないのだから、妊娠や出産を担わない側は、できる限りのサポートをすべきだし、実際息子がお腹の中にいたときは、妻が少しでも楽になるように、自分にやれることは率先してやったつもりだ。まぁそれが十分だったかどうかは妻にしかわからないので、ぼくにはなんとも言えないのだが……

 そんなわけで、ぼく自身のことで言えば、女性が妊娠や出産ができることをうらやましいと感じたことはない。というか、そもそも疑問なのだが、ものすごく大変な目にあうとわかっていることを、人は「うらやましい、自分も体験したい」と思うものなんだろうか? でもまぁこれは、パートナーがどんな妊娠や出産を経験したか(あるいはその人が妊娠や出産に対してどんな印象を持っているか)によるのかもしれない。ぼくの場合は、もともとの性格がびびりな上に、妻が安定期に入るまでつわりでほぼ毎日のように吐き続け、出産時も十二時間近く陣痛に苦しんで、しかも立ち会い出産で猛烈な痛みに耐えている姿を間近で見ていたので、どうしても「うらやましい」という感情が湧いてこなかった。だから、たとえばつわりもほとんどなくて、痛みこそあれど出産も割とすんなりだったという妻を見ていたら、あるいはちょっとやってみたい気持ちが湧くのかもしれない。

 

 さて、もうひとつの「いつ親になるかは人それぞれのタイミングがあるのではないか」ということについては、山崎さんの意見に同意だ。

 ぼく自身、自分が父親になったのは、息子が一歳を過ぎてからだった。妻がフルタイムで働きに出ることになり、その時点ではまだ保育園に入れていなかったため、とりあえず保育園が見つかるまでの平日の日中は、一人で息子をみることになったのだが、その三ヶ月ほどの「育休」とも言える期間で、ぼくの子育てに対する意識はずいぶん変わった。

 もともと在宅で仕事をしていることもあり、育児には普通にたずさわっていたので、そこまで大きな不安があったわけではない。とはいえ、やはり毎日一人で子どもをみるのはタフな仕事だ。公園や児童館などはもちろんのこと、ベビー用品店や小児科など、本当にいろんな場所に息子と二人で出かけた。出先で近くにトイレがないのに何度かに分けてうんこをされたり、場所を問わず延々と抱っこを求められてうんざりしたことも幾度となくある。でもそんなふうに「自分が世話をするしかない状況」に身を置き続けたことでようやく父親の自覚が出てきた。妻といるときも、以前にも増して子どもの世話をするようになったし、それまではどこかでまだ残っていた「育児を手伝う」という感覚は完全になくなった。

 あと、子どもを一人でみる経験をして、個人的に良かったなと思うのが、「育児における体力と気力の消耗量」がわかるようになったことだ。たとえば子どもがベビーカーに乗るのを嫌がったため、家からちょっと遠い公園までの道のりを抱っこしながらベビーカーを押して歩いた、と帰宅した妻から疲れ顔で言われたとき、自分が同じ経験をしていれば、それがどれくらいしんどいことかというのが、具体的な消耗量としてわかる。わかると、「それは大変だったね」という労いの言葉にも実感が伴うし、このあとはもうなるべく楽をさせてあげようという気持ちも自然と湧いてくる。

 このスキルは、夫婦関係をなるべく良好な状態に保つのに、今でもとても役立っているように思う。もちろんケンカは定期的にしているのだが、夫婦というのは気力と体力が互いに枯渇していなければ、ある程度信頼感を持った上で意見をぶつけあえるような気がするのだ。そういうケンカは夫婦にとって有意義なものだと思うし、信頼が土台にあるので、謝ったり、折衷案を探すのも難しくない。

 ということで、親になるタイミングは人それぞれだし、妊娠や出産を経験しない男性だって、しっかり子どもと関わる時間を持ちさえすれば、何の問題もなく親になれるというのがぼくの実体験から得た意見だ。というか、別に親になろうなんて意気込まなくても、それなりの手間と時間をかけて向き合った相手に対しては、勝手に関係性ができてしまうのが人間なんじゃないだろうか。ぼくらは断とうと思っても断ち切れない、その目に見えない感情のつながりのことを「親子」とか「夫婦」とか「恋人」などと便宜的に呼んでいるだけなのだ。

 ただ、これだけは言っておきたいのだが、三ヶ月もの育休を取って毎日子どもをみるなんていうのは、ぼくが比較的時間を自由に使える自営業の人間だからできることであって、普通の会社勤めの男性が、同じくらいの長さの育休を取って、そのあと何の問題もなく元の職場に戻れるかというと、それはまだまだ難しかったりもするだろう。家族との時間を重視すべきというような価値観は、まだこの国ではあまり広まっていないし、男性が長期の育休を取って戻ってきたら自分のポストがなくなっていた、という話を聞いたこともある。親になれるかどうかに性別が関係ないのは間違いないのだから、これからの時代は、あらゆる職種の男性が、もっと労なく育児にたずさわれる時間を確保できる世の中になってほしいなと思う。

 

追伸 無事に二人目をご出産されたと聞きました。おめでとうございます。自分が父親になってから、誰かが出産したと聞くと、よかったねぇと心から祝福の気持ちが湧くようになりました。子どもが無事に産まれてくるって、本当に一点の曇りもない、幸せなニュースだなと思います。

『ミルクとコロナ』「before corona」より

<第6回に続く>

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