「奇跡」をひとり占めしたから家族が死んじゃったの? ごはんが食べられない日々に届いた手紙/一穂ミチ『アンデュー?』後編

文芸・カルチャー

公開日:2022/2/17

第165回直木賞候補作で、本屋大賞2022にノミネートされるなど、各所で話題の小説『スモールワールズ』(一穂ミチ/講談社)。本書に未収録の特別掌編として公開された「回転晩餐会」と同じ世界線の物語「アンデュー?」を特別公開! 切ないのにどこか希望を持てる物語をお楽しみください。

スモールワールズ
スモールワールズ』(一穂ミチ/講談社)

 看護婦さんに車椅子を押してもらって、検査室に向かっている時だった。

 ――ああ、よかった、やっと会えた!

 知らないおばさんが急に駆け寄ってきて、わたしの両手をぎゅっと握った。

 ――うちの子がね、重い病気でもうすぐ手術なの。あなたの運をすこし分けてもらえたらきっとうまくいくから。

 おばさんはひざまずき、わたしの手を額に引き寄せてぶつぶつとお祈りのようなものを唱え、やがて「ありがとうね」と去っていった。おばさんの姿が見えなくなると、わたしは背中を丸めて歯を食いしばる。

 ――大丈夫? 気分が悪いの?

 看護婦さんが背中をさすってくれたけれど、何も出なかった。何も吐き出せなかった。奥歯が割れそうなほど噛み締めながら「いいいいい」とおかしな声を洩らしただけだった。あのおばさんの子どもの手術が失敗したら、死んじゃったら、わたしのせいだ。お母さんとお姉ちゃんが死んじゃったのもわたしのせいだ。わたしが奇跡をひとり占めしたからだ。

 ごはんが食べられなくなった。口に入れても味がしなくて、どうしても喉を通っていかない。脚を動かす訓練もいやになって、点滴の管につながれてただぼんやり天井を眺める日が増えた。

 ――お手紙が届いたよ。

 おばあちゃんが、一通の封筒を差し出した。見たくないと顔を背けるわたしにお父さんは言った。

 ――お前と同じ飛行機に乗っていて、生き残った男の子からだよ。

 もうひとり「奇跡」の人がいたことを、その時まで忘れていた。わたしは封筒を受け取った、でも中を読むのが怖かった。何が書いてあるのか想像もつかなくて、光に透かしてみたり、耳元でかさかさ鳴らしてみたりして何日も寝かせてしまった。封筒は薄っぺらく、あんまりたくさん書いてないみたい、とわかるとすこしほっとして、早く目が覚めてしまった明け方にそっと封筒の端をちぎった。

 白い便箋に、一行だけ。

『お元気ですか?』

 わたしはそれを見た瞬間、お姉ちゃんのことを思い出した。お姉ちゃんはスチュワーデスになるのが夢で、中学校に入って英語の授業が始まるととても嬉しそうだった。

 ――英語で挨拶するんだよ。まず先生が「グッモーニンエブリワン」って言うでしょ、そしたら「グッモーニンミスター・サワダ」って返事するの。男の澤田先生だからミスター・サワダ。

 ――それから?

 ――先生が「ハワユー?」って訊くから、わたしたちは「ファインセンキュー、アンドユー?」で、先生が「ファイン、センキュー」って答えておしまい。「ファイン」が「元気」とか「晴れ」って意味だから「元気です、あなたは?」って訊き返すんだよ。

 お姉ちゃんの「アンドユー?」は「アンデュー?」に聞こえて、そのちょっと気取った言い方と、語尾がひゅっと上がるのがおかしくてわたしは笑った。

 ――何笑ってんのよ、あんただって来年中学生になったらやるんだからね。

 ――えー、やだ、恥ずかしいよ。

 お姉ちゃんの、歌うような「アンデュー?」。

 大阪に万博が来るんだって、行きたいね、と目を輝かせていたこと。飛行機に乗るのを楽しみにしていたこと。飛行機の窓から雲の平野を覗き込んで「歩けそうだね」と隣で笑っていたこと。

 わたしは、やっと泣くことができた。涙がぼたぼた便箋に落ち、青いインクがにじむと、あの日見たはるかな空と同じ色になった。お母さんとお姉ちゃんが最後に見た美しい景色。あの青がここにある。晴れた空。晴れはファイン、元気もファイン。

 この人に会いたい、と思った。会って、何もかも話したい。そして話を聞きたい。たくさんのものを失って、それ以上に背負わされて、どんなふうに生きているのか。飛べなくても、走れなくても、自分の力で立って歩いて、会いに行きたい。みなさんの知らないところで会いたい。

 でも、まず手紙の返事を書こう。わたしも一行だけ。

『元気です。あなたは?』

 ファインセンキュー、アンデュー?

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