アメリカン・ドリームを体現するベストセラー小説の文庫化――『ぼろ着のディック』書評【評者:尾崎俊介】

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/30

2024年2月22日に、アメリカ古典大衆小説の名著、『ぼろ着のディック』が角川文庫より刊行されました。この作品について、より深く知るための書き下ろし解説を特別に掲載します。

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アメリカン・ドリームを体現する隠れたベストセラーが待望の文庫化!
『ぼろ着のディック』(著:ホレイショ・アルジャー 訳:畔柳和代)書評

評者:尾崎俊介

アメリカン・ドリームと『ぼろ着のディック』

 アメリカに「from rags to riches」という言い回しがある。「ぼろ着(をまとうような素寒貧すかんぴん)から大金持ちへ」という意味で、これを成し遂げることがアメリカ人の理想、すなわち「アメリカン・ドリーム」なのだ。だがその反面、「本当にそんなことができるのか?」という疑念もあり、「アメリカン・ドリーム」はしばしば「アメリカン・ドリーム」(The Myth of the American Dream)と言い換えられてきた。ここで「神話」とは「噂話」のいである。
 ところが1860年代後半、ちょうど南北戦争に片が付いた頃のアメリカに、「アメリカン・ドリームは噂話ではない!」と獅子吼ししくする小説家が現れる。我らがホレイショ・アルジャーその人である。そしてアルジャーは『ぼろ着のディック』を書くことで、己の言わんとするところを明確にして見せた。
 『ぼろ着のディック』の主人公ディック・ハンターは、両親のいない天涯孤独の身分。雨露をしのぐ家もなく、ぼろ着をまとい、ニューヨークの貧民街で路上生活をする哀れな少年だ。だがそんな逆境もなんのその、本人は元気一杯、朝も早くからビジネス街に出向くと、通勤途中の紳士たちの靴磨きに精を出す。靴磨きの腕がいいことはもちろん、正直者で料金をごまかさず、彼の惨めな服装をいじる顧客の辛辣なコメントにも当意即妙のジョークで切り返す頭の回転の速さが評判となり、彼の客層は裕福な紳士ばかり。その分実入りも良く、時に稼いだお金で賭け事を嗜んだり、芝居を見たり、贅沢な食事を楽しむ余裕もある。それどころか、彼ほどの才覚がない靴磨き仲間にレストランでの食事を奢ることすらできるのだ。そんな自由気ままな生活に、ディックは十分満足していた。

ぼろ着から大金持ちへ

 ところが、たった一つの出来事が、その後のディックの人生を劇的に変えることになる。
ある日彼は、寄宿学校に入るため地方からニューヨークに出てきたフランクという裕福な少年と、そのおじで後見人らしきホイットニー氏という紳士の二人連れに出会うのだ。大都会ニューヨークの喧騒に気圧され、不安げなフランクの様子を見かねたディックが侠気おとこぎに駆られて街の案内を買って出たところ、ホイットニー氏は渡りに船とばかりディックの申し出を受け入れ、その礼として彼にスーツを一式進呈する。かくして折り目正しいスーツ姿に変身したディックは、フランクと連れ立ってニューヨークの街をあちこち散策することになる。無論、ディックという絶好の案内人を手に入れたおかげで、フランクは未知の大都会に開眼していく。
 だが、新奇な体験に開眼したのはフランクばかりではなかった。見目麗しき若紳士となったディックに対し、ニューヨークの街は、これまでとはまったく別の顔を見せたのである。立派な服装をしているだけで、ぼろ着のディックに対しては閉ざされていた扉が、次々と開いたのだ。お金がある人生は、お金がない人生とはまったく別なものであることを、ディックは初めて知ることになる。
ディックに向上心が芽生えたのは、この時である。フランクのような裕福で教養のある青年になり、いずれはホイットニー氏のように立派な仕事を持った本物の紳士になりたいという強烈な願望がディックを襲ったのだ。
 このことがあってから、ディックは路上生活にキッパリと見切りをつける。安宿とはいえ自分の金で部屋を借り、曲がりなりにも一国一城の主になると、銀行へ行って自分名義の口座を開き、靴磨きで稼いだ金を貯め始める。そして新入りの靴磨き仲間で育ちのいいヘンリー・フォズディックを自分の部屋に寝泊まりさせてやる代わりに、彼から読み書き算術を習うことにする。要するにディックはそれまでの自堕落な生活を一変させ、社会の階層を駆け上がっていく決意をしたわけだ。そこから先の彼の快進撃の痛快極まりないことは、『ぼろ着のディック』を読まれた誰もが頷くことだろう。そしてホレイショ・アルジャーが書いたこのヤング・アダルト小説(とその数多い続編)が1860年代末から1920年代にかけてのアメリカで大ベストセラーになったことで、「ぼろ着から大金持ちへ」というアメリカン・ドリーム神話は、広くアメリカ国民の間に広まった。それどころか、「アメリカン・ドリーム神話」という言葉自体、いつしか「ホレイショ・アルジャー神話」という言葉と互換性が生じるほどになったと言えば、当時どれほど多くのアメリカ人がホレイショ・アルジャーの小説を読んで発奮し、野心を抱き、出世を目指して努力したか、容易に想像できるだろう。

ホレイショ・アルジャーの神話

 ところが、その名前がアメリカン・ドリームそのものを表す符牒になったほどの人物でありながら、ホレイショ・アルジャーについてあまり多くのことは知られていない。
 ある人物の生涯を知るには、伝記を読むのが早道であるが、アルジャーの最初の伝記が出たのは1928年のこと。書いたのはハーバート・R・メイズ(Herbert Raymond Mayes, 1900-87)という若きジャーナリストである。彼はある時、超人気作家であるホレイショ・アルジャーが、没後30年近くになろうというのに伝記の一つも書かれていないことを知り、それならオレが、と奮起したのである。ところが実際に作業を始めてみて、すぐに壁にぶち当たった。ホレイショ・アルジャーに関する資料がほとんど存在しなかったのだ。
 普通ならここで伝記執筆の試み自体を諦めるところである。ところがメイズはここで悪戯心を起こし、嘘八百の伝記をゼロから書き上げてしまった。何しろメイズが書いた『アルジャー:ヒーローのいない伝記』(Alger: A Biography Without a Hero)という本、その事実の多くをアルジャー自身の日記に負っているのだが、その日記自体、メイズがでっち上げた偽物なのだから、要するに全部が全部ウソなのである。しかもその嘘八百の伝記が実に良く書けていたもので(?!)、この本の後に出たアルジャーの伝記はどれも皆、メイズの書いた伝記を主要な情報元にすることとなった。たとえばアルジャーの父親が非常に厳格な躾の厳しい人で、そのプレッシャーのせいかアルジャーは子供の頃吃音に悩まされたとか、学生時代のアルジャーがあまりにも堅物ないしきんきちだったので、友人たちから「聖人ホレイショ(Holy Horatio)」というあだ名で呼ばれていた、といったもっともらしいエピソードの数々、これらはアルジャーのどの伝記にも載っている有名なエピソードであるが、実はこれら全部、メイズの創作だったというのだから、もう何をかいわんやである。
 その後1978年になって、メイズ本人が自分の書いた最初の伝記が「周到かつ完璧な作り物」であることを白状したため、この時点でホレイショ・アルジャーにまつわる伝記的事実はすべて白紙に戻された。アルジャーのまともな伝記が出たのはさらにその7年後、ようやく1985年になってからである。とはいえ、没後90年近くが経ってしまった後では、生身のアルジャーを知っていた人も全員鬼籍に入っているわけで、詳細な伝記的事実を集めることは難しい。「ホレイショ・アルジャー神話」の大本であるアルジャー自身、謎の多い神話的人物になってしまったのも致し方ない。

牧師から作家へ

 ところで、メイズが最初の伝記を書こうとした1928年の時点ですら、ホレイショ・アルジャーに関する資料がほとんどなかったことには理由があった。
 アルジャーの父親が厳格な人であったかどうかはともかく、ユニタリアン派の牧師であったことは確かで、アルジャーも父の後を継ぐべく16歳でハーヴァード大学に入学。大学院(=神学校)を経て牧師となり、1864年、晴れてマサチューセッツ州辺境の漁師町ケープ・コッドの教会に赴任する。まずは順調な人生の滑り出しである。だが問題はここから先。ここで教区の少年たちの指導に当たったアルジャーは、そうした少年たちの何人かと性的な関係を持ってしまい、これが元で彼は教区を追われてしまうのだ。アルジャーが、そして彼の親族が、彼の日記やら何やら、過去のことを記したすべての書類を破棄してしまったのもこれが理由。どうりで、彼の人生にまつわる資料が存在しないはずである。
 さて、上記のような理由でマサチューセッツ州にいられなくなったアルジャーは、1866年に心機一転ニューヨークに出て、新聞配達の仕事をする貧しい少年たちの宿泊所詰めの牧師職にありつく。そしてここで勤労少年たちと寝食を共にしながら、彼らの教育に熱心に取り組んだ。そしてその教育活動の一環として力を入れたのが、貧しい少年を主人公に据えた立身出世譚の執筆だったのである。うっかり牧師職に就いてしまったが、元々作家志望であったアルジャーとしては、自分が世話をしている少年たちを善導することを目途として、彼らと同じような境遇にある貧しい少年がトントン拍子に出世していく痛快な物語を書くことほど楽しいことはなかっただろう。1867年、彼の最初の小説作品である『ぼろ着のディック』が生まれた背景には、このような事情があった。

10セントで買えるダイムノベルとは

 そしてそんなアルジャーの貧困少年出世譚に目をつけたのが、1855年創業の「ストリート&スミス」という新興出版社であった。この出版社は『ニューヨーク・ウィークリー』という小説新聞の刊行で人気を博していたが、1880年代に入ってからは「ダイムノベル」の出版にも力を入れるようになっていた。
 ダイムノベルというのは、その名の示す通りわずか10セント(ダイム)で売られていた紙表紙の文庫本である。1860年に「ビードル社」という出版社がこの小ぶりで安価な小説叢書の刊行を始めると、これが爆発的な人気を博すようになり、その後多くの出版社がこの10セント文庫市場に参入、上記ストリート&スミス社もそのうちの一つで、たちまち「ダイムノベル出版大手5社」の一角を占めるようになった。そして刷れば売れる状態のダイムノベル景気の中で小説の書き手を探していた同社首脳部の目が、ホレイショ・アルジャーの上にピタリと留まったというわけだ。何しろアルジャーは、ニューヨークの街にたむろする薄汚い浮浪少年たちが、新聞配達の仕事と寝泊まりする場所を得、次第に身ぎれいになっていく様を日々目の当たりにしているわけだから、彼が書く一連の貧困少年出世譚にはリアリティがある。ストリート&スミス社が「これは売れる!」と見て取ったのも当然だろう。そこで同社はアルジャーを励ましてどんどん小説書かせ、それを『ニューヨーク・ウィークリー』紙に連載し、その後に「アルジャー・シリーズ」という看板の下、ダイムノベルとして単行本化した。『ぼろ着のディック』以降、連綿と書き続けられたアルジャーの118冊の貧困少年出世譚(この数もメイズ由来なので相当疑わしいが)は、こうして世の中に出て行ったのである。否、それだけではない。この頃のアメリカにはまだ「著作権」という概念が確立していなかったため、ストリート&スミス社以外の出版社がアルジャーの小説を海賊版として刊行していたことは十分にあり得る。さらに1899年にアルジャーが亡くなった後も、残されていた未完成原稿に他の作家が適当に手を入れ、アルジャー名義の作品として出版してしまったケースも多々あって、結局、ホレイショ・アルジャーの小説が全部で何作品あり、それがトータルで何部売れたのか、正確な数は分からない。1700万部とも3000万部とも言われるが、一説には2億5千万部という数字も挙がっていて、つまりは「天文学的な数の部数が売れた」ということしか言えない。しかもそれほど売れたのに、出版社との契約が印税契約ではなく原稿買い取り契約だったため、ホレイショ・アルジャーの懐に大金が入るということはなかった。アメリカで一番有名な出世譚の著者ホレイショ・アルジャーは、職業作家としてはちっとも成功していなかったのだ。

アルジャー作品の特質

 さて、上記のようにホレイショ・アルジャーはダイムノベルという媒体を通じて貧困少年の出世譚で名を成したわけだが、ならばアルジャーの書く小説が典型的なダイムノベルだったのかというと、それはちょっと違う。
 そもそもダイムノベルには「西部もの」を筆頭に、「冒険もの」「探偵もの」「学校スポーツもの」「恋愛もの」「SFもの」など様々な人気ジャンルがあって、「出世譚」はその一ジャンルに過ぎない。しかも「出世譚」のジャンルの中でも、アルジャー作品は必ずしも典型的ではない。
 ダイムノベルにおける出世譚の典型というのは、たとえばホレイショ・アルジャーの同世代作家であるフレデリック・ウィテカー(Frederick Whittaker, 1838-89)の作品のようなもの。ウィテカーが1880年代に書いた小説、たとえば『技師ジョン・アームストロング:出世の階段、またはいかにして人はアメリカにおいて出世するかの物語』(John Armstrong, Mechanic; or, From the Bottom to the Top of the Ladder. A Story of How a Man Can Rise in America, 1882)は、田舎から都会に出てきた若者ジョン・アームストロングが主人公だ。鉄工会社に勤めることになったジョンは、職工として次第に頭角を現し、その一方で夜学に通って教養を身に着け、同僚たちの信望を勝ち得る。そして会社が悪辣な解雇計画を持ち出すと、これにストをもって立ち向かい、労働者側に勝利をもたらす。そしてその後ジョンは経営陣が一新することとなった会社の社長に推され、意中の女性との結婚も決まり、最終的にはニューヨーク市長にまで成り上がる――とまあ、ウィテカーが書く小説というのは大体この種の「絵に描いたような出世譚」なのだが、ここで注目すべきは、主人公の出自である。労働者。そう、労働者が大出世する物語こそ、ダイムノベルの華なのだ。
 翻ってホレイショ・アルジャーの『ぼろ着のディック』を見てみよう。この小説の主人公、ディック・ハンターは労働者なのだろうか?
 ディックが生計を立てる「靴磨き」という職業、あれは労働と言えば労働である。しかし、上述したジョン・アームストロングとは違ってディックは勤め人ではない。今で言えばフリーランスの自由業。しかも、「帽子の売り子」になった友人のヘンリー・フォズディックが週3ドルの給料をもらっていたのに対し、ディックはその倍以上稼いでいる。稼ぎが減るという現実的な理由でもって、ディックは労働者にはなれないのだ。
 それだけではない。ディックの言動をさらに観察してみよう。彼が本作で最初にかっ飛ばすジョークは「五番街に屋敷があって、家賃が高くて大変だ」であった。そして「A・T・スチュワート(ニューヨークの大商人)は俺の友人だ」「ピーター・クーパー(有名な教育者)とは同じ学校に通った」「ホレス・グリーリー(新聞社社主)と同じ店で服を買う」「アスター・ハウス(豪華ホテル)に住んでいる」などとリッチな暮らしぶりをほのめかした挙句、口をくお得意のジョークは「(保有している)エリー株を少し売らなくては」である。
 そう、ディックの思考のベースは、断じて労働者のそれではない。むしろ資本家のそれである。ぼろを着ていた時から、ディックは資本家として考え、行動していた。彼は、できれば労働などしたくないのである。彼の理想は裕福になることであって、裕福さを体現するフランクとそのおじに出会った時、その理想が具体的な形を取り始めたのだ。だからこそ出世を夢見たディックが最初に起こした行動が、銀行に口座を開くことだったのも納得できる。彼が貯め始めたのは生活費ではなく、投資のための資本だ。ディックは、いわば端からの計画通り、裕福な資本家への道を歩み始めたのである。そしてそんな彼にとって重要だったのは、目の前の手仕事にあくせくすることではなく、手っ取り早くチャンスを掴むこと――たとえば船から落ちた大金持ちの子息を救うために水に飛び込むとか――だったのだ。

『ぼろ着のディック』は誰に読まれたか

 以上述べてきたように、ホレイショ・アルジャーの貧困少年出世譚は、その見た目にもかかわらず、実は「資本家入門」と言い換えられるものなのである。
 ただ、ここで急いで付け加えなければならないのは、ディックが目指す資本家は「いい資本家」であること。正直で、決して暴利をむさぼらず、富の余剰が生じれば、それを困った同胞に気前よく分け与えることをためらわない、そういう善意の資本家。つまり、ホレイショ・アルジャーの物語が読者に伝え続けたのは、「いい資本家になりなさい」というメッセージなのである。彼は、世の若年労働者に勤労の美徳を訴えていたのではなく、資本家の卵に倫理を売っていたのだ。一説に、アルジャーの小説は、若年労働者として都会に暮らす有象無象の若者たちよりも、むしろ地方に住む裕福な家庭の子弟――いわば『ぼろ着のディック』に登場するフランクに似た少年――に受けた、という説があるが、アルジャーの語る物語が、「読者の皆さんも、いずれはニューヨークに行って勇躍し、果てはいい資本家になりなさい」というメッセージを持ったものであるとすればそれも当然だろう。加えて本作が恰好のニューヨーク地理案内になっていることも、地方に暮らす裕福な少年たちからすれば、将来に備えてこれを買っておくべき理由になったに違いない。
 こうして『ぼろ着のディック』は、資本家を夢見る若き野心家たちにとって、一つの神話となったのである。そしてこの神話は、資本家の夢が続いていた間、すなわち19世紀末から1920年代まで、神話であり続けた。『ぼろ着のディック』が神話でなくなった(=売れなくなり始めた)のは、1929年10月24日(木)のウォール街における株価大暴落と、それに続く世界恐慌以降である。この日、『ぼろ着のディック』だけでなく、資本主義そのものの神話が、音を立てて崩れ落ちたのだった。

それでも面白い『ぼろ着のディック』

 だから今、『ぼろ着のディック』を資本家入門の書として、あるいは神話的小説として、読む人はいない。だが、別に神話でなくてもいいではないか。小説の価値とは、つまるところ、面白いか、面白くないかである。そして『ぼろ着のディック』は文句なしに面白いのだ。
 冒頭の、顧客に着ていたぼろ着を揶揄されるシーンをもう一度思い返してみよう。

「ごひいきの仕立屋はどこ?」
「同じとこにいらっしゃるおつもりで?」ディックはそつなく訊ねた。
「いいや、仕立屋がきみにぴったり合わせてくれなかったようだから」
「このコート、かつてはワシントン将軍のものだったんですよ」ディックがおどけた口調で言った。
「革命戦争のあいだずっと着てたから、あちこち破けたんです。激しく戦ったから。将軍は亡くなるときに、未亡人に言い残したんです。コートを持ってない、賢い若者にこのコートをやるようにって。それで未亡人が俺にくれたんです。でも、もしも将軍の形見にお持ちになりたけりゃ、手ごろな値段でゆずりますよ」
「それはありがとう。でもやめとくよ。きみから取り上げたくないからね。それで、そのズボンもワシントン将軍から届いたのかな?」
「いいや、こっちはルイス・ナポレオンからもらったんですよ。ルイスが大きくなりすぎて、俺に送ってくれたんです――ルイスは俺よりでかくて、だから大きさが合わねえんです」
「どうやら著名人のお友だちがいるようだねえ。さて、そろそろお代を払ったほうがいいね」
「異議なしです」ディックは言った。

 このテンポのいいやり取り、これはもう、落語に登場する江戸っ子の名調子そのものと言っていい。こんな気風きっぷのいいディックが、金を巻き上げられた友人を助けて悪漢から金を取り戻し、弱い者いじめをする悪ガキを懲らしめ、人を泥棒呼ばわりする意地悪婆さんをぎゃふんと言わせ、かと思えば良家のお嬢さんの隣に座らされて借りてきた猫のようになったりするのだから面白くないわけがない。そして生活を一新する覚悟を決めてからの熱心な勉強ぶり、上達ぶりも頼もしいし、最後は義侠心にものを言わせ、自らの命も顧みず、船から落ちた子供を助けるために水に飛び込むとなれば、誰だってこの若き好漢にやんやの喝采を浴びせたくなるではないか。そして仮にどこかの誰かが『ぼろ着のディック』を読み終わって、ふと、「ディックという少年は、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』のトムや、『ハックルベリー・フィンの冒険』のハックにどこか似ているな・・・」と呟いたとしたら、筆者は大いに首を縦に振るし、また別の誰かが「ディックが友人のフランクを連れてニューヨークの街を闊歩する様は、同じくニューヨークの街を彷徨(さまよ)う『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドの足取りにちょっと似ているじゃないか」と思ったとしたら、これにも筆者はハタと膝を打つだろう。
 ホレイショ・アルジャーが書いた数多あまたの小説の筋書きはすべて『ぼろ着のディック』にそっくりで、彼は生涯に119作の作品を書いたのではなく、『ぼろ着のディック』を書いた後、この小説を118回焼き直したのだ、とよく言われる。確かにホレイショ・アルジャーは、代表作である『ぼろ着のディック』ただ一作を書いただけで終わった作家であったかもしれない。だがこの一作で彼は、以後のアメリカ小説の中に繰り返し登場する「アメリカ少年」の一つの原型を、見事、作り上げたのである。

解説者プロフィール

尾崎俊介(おざき・しゅんすけ)
1963年、神奈川県生まれ。愛知教育大学教授。慶應義塾大学大学院文学研究科英米文学専攻後期博士課程単位取得。専門はアメリカ文学・アメリカ文化。著書に『S先生のこと』(新宿書房、第61回日本エッセイスト・クラブ賞)、『ハーレクイン・ロマンス 恋愛小説から読むアメリカ』(平凡社新書)、『アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく』(平凡社)など。

参考文献

大井浩二「アメリカの伝記と神話――ホレイショ・アルジャーの場合――」『人文論究』(関西学院大学人文学会)第38巻2号、1988年
渡辺利雄「解説」(『ぼろ着のディック』角川文庫、2024年、に付された作品解説)
Quentin Reynolds, The Fiction Factory; or, From Pulp Row to Quality Street, Random House, 1955.
Michael Denning, Mechanic Accents: Dime Novels and Working-Class Culture in America, Verso, 1987.
J. Randolph Cox, The Dime Novel Companion: A Source Book, Greenwood Press, 2000.

作品紹介・あらすじ

ぼろ着のディック
著:ホレイショ・アルジャー 訳:畔柳和代
発売日:2024年02月22日

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