先生はえらい (ちくまプリマー新書)
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先生はえらい (ちくまプリマー新書) / 感想・レビュー
めっし
すごい本だった。僕にも師匠がいるが、たしかに客観的に「尊敬すべき」人でなくて「僕がとにかく尊敬している」。「僕には到底到達できない何か境地にある先人」と僕が思い込んで魅了されている。「先生」を持つことは人生を豊かにする。自分がこの人こそ「先生」だ、と思うことが出発点。「自分以外は皆先生」という言葉に実感がある人は賢者だ。近年、教員は説明責任を求められ、教員は明確な回答を用意するが、「先生と弟子」という教育の本質は失われていく…等々、内田先生の文章から誤解に基づく思考が次々と広がっていく。勉強になりました。
2013/07/19
ばりぼー
「誰もが尊敬できる先生」など存在しない。人間は学ぶことのできる事しか学ぶことができないものであり、「学びの主体性」とは、学ぶ側の解釈の自由、誤解する自由を許容するものだ。恋愛がそうであるように、師弟関係も本質的には誤解に基づくものである。「この人の真価を理解しているのは私しかいない」という思い込みが絶対に必要となる。私たちはコミュニケーションにおいて、理解を望みながら、理解に達することができないという宙吊り状態をできるだけ延長することを望んでいる。誤解の余地の残されていることが、意思疎通の実感をもたらす。
2016/09/30
佐島楓
生徒ももちろんだけど、是非現場の先生がたに読んでいただきたいと思った。教育論としても、コミュニケーション論としても頷かされる。「誤解の産物」だとしても、良いじゃありませんか。
2011/07/16
ばりぼー
例えば「自動車の運転技術」を学ぶ場合。自動車学校に通う生徒は、教官を「先生」と呼ぶが、卒業した瞬間に名前も顔も忘れてしまうだろう。しかし、鈴鹿でたまたまF1ドライバーの教えを受ける機会があったとすると、そのドライバーに対しては機会あるごとに感謝を口にするのではないか。この違いはどこから来るのか?教習所の先生は「これでおしまい」という到達点を具体的に示し、プロのドライバーは「技術には限界がない」として到達点を消去してみせる。二人の先生の違いはここだけである。人間は学ぶことを欲望する者しか学ぶことができない。
2019/07/16
すたんど
【3回目】今日の「おしゃべり会(=読書会)」に備えて、前回傍線を引いた部分を中心に、Evernoteに抜き書きした。A4で2枚になるらしい。人間は、本源的にコミュニケーションを欲するものであり、それを駆動するのは「未知」であると著者は言う。また、教えることよりも、「学び取ること」の重要性を説いている。3度めでも十分に面白かった。私としては、人が人を敬する力が萎えているのではないかという危機感を、この本を書き写しながら思っていた。
2017/10/14
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