650ページ超を約2時間の映画にまとめた方法は?『リボルバー・リリー』監督・行定勲×原作者・長浦京の対談インタビュー

文芸・カルチャー

PR更新日:2023/8/17

長浦京さん、行定勲監督

「こんな日本映画を観たい」という思いから「読む映画を作ろう」と長浦京さんが書き上げたアクション巨編『リボルバー・リリー』の映画化作品が8月11日、ついに公開される。綾瀬はるか演じる“史上最強のダークヒロイン”をスクリーンに生み出したのは、自身の“触れてこなかった原点”でもあるアクション映画を初めて手掛けた行定勲監督。凄絶華麗なエンターテインメント大作誕生には、原作者と監督の根底で通い合っていた幾つもの思いがあった――。

取材・文=河村道子 撮影=干川修

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時代がヒロイン“小曾根百合”に追い付いてきた

長浦京(以下、長浦):僕の小説はコアな人たちが諸手を挙げて喜ぶようなマニアックな要素がいっぱい入っているので、たとえば綾瀬はるかさんやジェシーさんを観に来ました!という人たちが満足してくれるのだろうか?と少し心配していたんです。

 けれど完成作を拝見したら、これはコアな人たちだけが喜ぶものではない、皆が満足を得ることのできるエンターテインメント作品だ!と、すごくうれしく思えた。と同時に、ちょっとほっとしました。

行定勲(以下、行定):おっしゃるとおり、長浦さんの書かれた原作小説はものすごく要素が多い。でもあれだけぎっしり書かれているのに、余白があるんですよね。映画を作る側として、それは非常にありがたいことで。ただどこから手を付ければいいのか、そこには想像を絶する道程がありました。

長浦:そうでしょうね。

行定:結果的に綾瀬はるかさんを配した小曾根百合をどう組みあげていくか、というところから始めました。製作発表のコメントのなかに、僕は「耽美的なアクション」という言葉を書いたのですが、それを自分に課して作ろうと。何かの真似事だったら、三度の飯よりアクション映画が好きだという人が撮った方がいい。でもそういう人たちの撮るアクション映画は大概、何かの真似事になる。それはそうですよね、目指すものがあるのだから。

長浦:オマージュということですね。

行定:そうです。一方、僕には目指すアクション映画がない。目指すべきは長浦さんの小説しかなかった。そこが「耽美的なアクション」という言葉に繋がってくるのですが、長浦さんの小説には、情景描写のなかに美しい間合いのあるアクションが存在している。映画にもそうした場面が加わっていくと、原作の持つロマンのようなものにちゃんと帰結できるのではないかと考えたんです。そう思いながら撮っていたので、今、長浦さんから「ほっとした」と言っていただいてすごくうれしかった。

長浦:監督が撮ってくださったアクションの場面からは、単なる凄惨な場面、殺し合いの場面ではなく、「生きるために戦っている」という方向性や理由づけが感じられたんです。凄惨というものを越えた説得力が場面、場面にある。「耽美的なアクション」という言葉は、そこにも繋がってくるのではないかなと思いました。

行定:そうかもしれません。『リボルバー・リリー』は大正という時代を描いていますが、気付いてみたら、2023年の今を生きる僕たちが、「すごいボール投げられた」ということにならなければいけないと思いました。時代小説であればあるほど、今というものを照射しなければ意味がない。僕らは史実や事実も調べるんですけど、作るとき、やっぱり嘘をつくんですよね。でも知ってて嘘をつくというところがポイントで。そのなかにある真実が、僕らが今感じていることに加わっていくから、表現としてすごく有効的なんだろうなと。

 だからよくぞ、こういう小説を書いてくださったなと、ずっと思っていたんです。男尊女卑が当たり前の時代に女性が台頭していく、どこかで何かを救う、何かを凌駕する瞬間というのは、百合のようなヒロインが描かれていなかったら成立しなかった。今、時代がちょうど『リボルバー・リリー』に、小曾根百合に追い付いてきた、そんな感覚を抱きつつ、僕はヒロイン像を作ろうとしていました。

長浦:映画を観て感じたのは、自分に都合のいい嘘をついていないことでした。現代と通底するところを分かりやすくするためのデフォルメはするけれど、作品を作りやすくするための都合のいい嘘や時代の捻じ曲げみたいなものが一切ない。小説ってやはり言葉なので説明が長くなるんですよ。それを行定監督は感情や場面で伝えてくださっている。大正時代とはこういうもの、こういう時代背景でした、ということが、感覚として飛び込んでくるんです。そういう意味でもいろんな人に楽しんでもらえるエンターテインメントとして成立しているし、自分にとっても勉強になりました。だらだら長く書いてはいけないんだって(笑)。

行定:いや、それは違いますよ(笑)、読者のなかには文字フェチの方々が大勢いる。小説はとにかくいっぱい書いてほしいという思いがある。

長浦:その文字フェチを飛び越えるための策を、監督はプロとしていっぱい持っていらして、それを出し惜しみせず、この映画のなかで見せてくださった。セリフやナレーションなど、言葉による説明ではなく、場面や雰囲気、作品自体が持っているムードで、男尊女卑がまだ普通であり、ピストルが東京の銀座でもお金を出せば普通に買えた時代だったということを、場面、場面で伝えてくれた。軍と一般の人たちが当たり前のように共存しながら暮らし、軍に抑圧されることがあってこそ、華やかな生活ができることを皆が知っていた頃の匂いが、画面のそこかしこから感じられました。

行定勲監督

2人の男が映画では1人になったことで登場人物の感情がより複雑になっていった

――文庫版650ページを超える巨編を、約2時間の映画作品に構築していくために、脚本づくりは徹底的に議論されたそうですね。

行定:相棒には小林達夫という若手の映画監督を脚本家として選びました。脚本家という手練れの才能を連れてくるという手もあったのですが、そうすると映画ならではの場面の置き換えや変更をしてしまいがちになるんです。脚本家がいる場合、もうひとつの原作から脚本へという、あるひとつの崇高な形があるんですけれど、そこを回避し、原作をもとに自分たちが観たかった場面を先に打ちだしていくという方法を取りました。

 相棒の小林には何ページに何が書いてあるか熟知するように読んでくれと頼み、原作のなかで観たい場面を、一糸を紡ぐように構築していきました。それを繋ぎ、上映時間が倍になるくらいのシナリオを作り、そこからどのパーツを使うかという選択の作業をしていきました。でも実は、ほんとにやりたかったこと、最初に諦めたんです。

長浦:そうなんですか!?

行定:原作に描かれている、やくざの組長として君臨する男の息子世代の物語に、第二次世界大戦後に台頭していく、やくざの原型がある。僕はこれに一番、興味を抱いたんです。けれどそれをごっそりと抜いたことにより、小曾根百合の物語に集約することができました。

長浦:原作では、過去に縛られる女と過去に囚われない男が対立軸となってストーリーが進んでいきますが、一方をオミットしなければ、映画として成立しないと、バッサリと切る覚悟が行定さんの凄さです。

 監督の作品で、僕は『今度は愛妻家』が大好きなんですけれど、あの映画も、たとえネタバレしてもいいから「自分はここを見せたい」という主張が伝わってくる。そして原作を読んでいただいたとき、おそらくわかったと思うのですが、この小説、実は頭から書いてないんです。まさに監督の脚本づくりと一緒で、自分の書きたい場面を連ねていき、その間を繋げるにはどういうストーリーが必要か、と埋めていったんです。

行定:これまでも小説を原作とした映画作品を作ってきましたが、やはり物語をゼロから生み出した作家は、僕たちにとって神のようなもので。その方がなぜ、これをこんな風に書いているのかということを追体験しないと、本当の意味での映画化はできない。設定をお借りするだけでは映画化をする意味がない。構造を変えるとか、表現の形態を変えるとか、今回、原作では物語の鍵とも言える2人の人物を1人にしましたが、その行為が、作家が考えたことの冒涜になっては絶対ダメだと思いました、それがプラスになっていないと。

長浦:小曾根百合の人生において鍵となるその2人の男が、映画では1人として描かれたことで彼女から現れる感情が原作から変化していますよね。

行定:嫉妬心や、彼女の抱え持つ母性が非常に複雑なものになっていきました。こういう状況は作ろうと思っても作れない。そして百合のその感情は、彼女が守る少年、羽村仁成さん演じる細見慎太にも向けられることとなり、長谷川博己さん演じる弁護士・岩見良明が百合に抱く複雑な感情にも繋がっていった。そういうことはいつも映画で一番やりたいことで、今回、初のアクション映画とか、新境地とか言われるんですけれど、僕にとってはこれまでやってきたことの延長線上にあるだけ、アクションがそこに必然としてある、という映画になったと思っているんです。

長浦:これは僕の感想なんですけれど、監督が恋愛映画の旗手と呼ばれるのは、人間の生まれもった業や機微を描くのが非常に巧みで、そうした人間の一面が最も出るのが恋愛だから、そう呼ばれるのではないかと。『リボルバー・リリー』を観て、改めてそう感じました。

長浦京さん

“白いドレス”に見る作り手が抱く純粋さというテーマ

――綾瀬はるかさんが演じたヒロイン・小曾根百合について、ご自身の思いをそれぞれお聞かせください。

長浦:自分の創造物でありながら、これまでは自分から距離のある、ひとつのヒロインの形だと彼女のことを思っていたんですが、綾瀬さんが演じてくれたことによって身近な存在となり、血の通った人物として捉えることができました。凛としながらも弱い百合も、映画のなかでは描かれていて、すごくしっくり来たんです。映画を観たら、自分の娘っぽい感じがしたというか。

行定:はははは(笑)。

長浦:古臭くて失礼な言い方かもしれないのですが、自分の娘が行定監督の家に嫁に行ったような感じがして、少し淋しい気もしました(笑)。

行定:原作を読み、百合の壮絶な生き方を辿っていくなかで、百合は生きながら、いろんなものを喪失した人なのだろうなと感じていました。ちょっと淋しそうな、ブラインドが下りたような目が、ひとたびリボルバーを握ると生気を宿し、返り血を怖れず銃を撃ちまくる。「最も排除すべき日本人」と言われるほどに怖れられた女性が、そうした人生のなかで得たもの、喪ったものはなんだろう?と考えていましたね。

 百合は無垢なまま人を殺す。それは自分の生きるひとつの術、それを信じて生きてきたという彼女の純粋性もそこに感じた。そうしたなか、彼女が一番得たものとは愛情だったのかなと。彼女がただ1人愛していた男が、お前はいつも綺麗な服を着ていろ、殺し合いにも身だしなみは大事だぞと言って綺麗な服を着せてくれるじゃないですか。それもこの映画で描きたかったことのひとつでした。

――百合の衣装はどれも素敵で、殊にクライマックスシーンで着る、ユリの刺繍が施された白いドレスが鮮やかでした。

行定:モードな、ドレッシーな女性が日本陸軍と撃ちあう、というのは荒唐無稽な表現ですよね。いかに説得力を持たせられるかということが、その場面は勝負だと思いました。説得力がないと、「白いドレスが赤い血に染まるというのをやりたかっただけなんでしょう?」ということになってしまうから。クライマックスシーンの戦いの場に赴く百合が白いドレスを纏うことにどんな意味があるのかということに観た人が心を重ねてくれなければ。

 スタッフの誰もがあの場面のドレスの色は「白」だと言ったんです。そこには死に装束という意味も含まれていただろうし、自分が作ったそのドレスを纏う百合を、戦いの場へと送りだす滝田洋裁店のオーナーを演じた野村萬斎さんは、「嫁に出す父親みたいな気持ちになった」と言っていました。「百合は戦いと寝る女だから、ウエディングドレスだと思えました」と。

 殺し合いにも身だしなみが大事だ、という言葉のなかに百合は信じるものを見出し、テロ行為をしていたと思うんです。すべてはそういう純真な部分、そして百合以外の人々も信じるものを持っている。陸軍には陸軍の、海軍には海軍の言い分もあるという時代に、小曾根百合には、そのすべてに向けて弾を放てる人間になってほしいと思いました。

長浦:今のお話を伺って、この映画のテーマは純粋さなのだ、と思いました。この映画に携わった皆さんが、そのことを共通認識として持っていらしたゆえに、最後の戦いの場面で百合が着るドレスは「白」という答えが出てきたんだろうなと。純粋さゆえに誰かを信じて戦う人もいれば、陸軍にしても目指す国を作る、という信念あっての行動を取る。こういう国でなければいけない、と戦う男もいる。日本がこの先、どう変わっていくのか不確定だったからこそ、みんなが未来を見ていた。

 無理やり結びつけるわけではありませんが、こんな不景気で、仕事もなくなってきて、もう日本もダメだなという思いが巡ってしまう今、日本はこれからどうしていけばいいのか、この映画を通し、変えていくべき要素を大義として見られる時代とリンクした気がしました。

――最後に映画をご覧になる方々へのメッセージをお願いします。

行定:『ゴッド・ファーザー』という映画がありますよね。僕は『リボルバー・リリー』を読んだとき、その感触と同じものを得たんです。『ゴッド・ファーザー』について、映画ファンとして言えることはパート2が大傑作なんです。なぜかというと枝葉を描いているから。パート1は太い幹を描いているんです。だから誰も越えられない。

 後々、たとえば『リボルバー・リリー』の続編が作られるとして、「2はこのあたりの時代を描いたほうがいいじゃない?」とか、「百合がリボルバーを向けるのはどこ?」と話していくなかで、「考えてみたら、最初に作った『リボルバー・リリー』って大いなる序章だったんだね」という映画にならないと、この映画は記憶に残らないと思いました。

 長浦さんの書かれる物語はそういうものを想起させるんですよね。書かれてないこの先の話を想起させながら展開していく。そうしたものも、映画のなかのニュアンスとして感じてもらえたらうれしいなと思います。

長浦:大正時代とか銃とか、いろいろと難しい要素が入っていると思うんです。けれどいったん映画の世界に入ると、画面の美しさに圧倒され、自分の感覚が研ぎ澄まされていく。ゆえに入り口はなんでもいいと思うんです。ガンアクションでも、綾瀬さんでも長谷川さんでもいい、何かに興味を持って観に来てくれた方が、観終わったあと、自分のなかに何かが強く残っていることを自覚するのは間違いない。誰もがこの映画を観ていた時間は「素敵な時間だった」と思うことのできる映画。ぜひ多くの方に観ていただきたいですね。

長浦京さん、行定勲監督

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