谷川俊太郎 Interview long Version 2007年8月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

難問・質問お答えします。
詩人の目で見ると、世界はまた違って見えてくる!

谷川俊太郎質問箱』という企画が始まったとき、なんかちょっとびっくりしたんです。今はHPを持ってる作家さんも結構いますし、質問に答えてくれたりもしますけど、
あの谷川さんに質問できるなんて!
なんか「サンタクロースに手紙を出すと返事がくるらしいよ」って感じで。

それほど遠い人ってこと?
これ有名な話なんだけど、僕、小学生に「あ!生きてる」って言われたことがあるんだから。サンタクロースって言われても驚きませんよ(笑)。

いやもう、そういう時代になったんだなあというか不思議というか。  「その先のコンビニでミッキーマウスと会ったよ」くらいの(笑)。

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なるほどね。僕、でも朗読会なんかで質問コーナーをつくることがよくあるんですよ。
ときどき、ぎょっとするような質問もくる。でもそれは少ないですね。
わりと型どおりの質問が多いので、今度の本はいろいろな質問があって楽しかったです。

マジメな質問だけじゃなくて、「なんでそれを聞く?」みたいな
ちょっと変わった質問も結構あってそういうときの回答の方が、かえって面白かったりもするんですよね。

そうなんですよ。僕が愚問が好きなのはそこなんです。

年齢と質問の内容が必ずしも一致してるとは限らないですし。

ほんと、そうでしたね。

そもそも『谷川俊太郎質問箱』が「ほぼ日刊イトイ新聞」で始まったときの告知が
「難問・愚問お待ちしています」だったんですよね。

質問されるの、好きなんです、ぼく。自分からしゃべりたいこと何もない人だから。
しゃべること、思い浮かばないの。

以前お会いしたときも「発注がないと詩を書かない」っておっしゃってましたけど。

そう。ぜんぜん。ほんっと、受注生産なんだよねえ。

あの発言はね、ほんっと、イメージががらがらと……詩人って、もっとこう、湧き上がる何かを…あの……そういうイメージがあって。

普通はね。僕はちょっと違うんだって! 詩人のおいたちが。
みんな、「詩人はこうあってほしい」みたいなイメージがあるみたいね。
たとえば「朝ごはんは何食べますか?」って聞かれて、普通に答えると、いやな顔されるんですよ。雲とか霞を食べてるって言ってほしいんだね。

今回は質問をメールで受け付けたわけですが、普段メールってなさるんですか?

インターネットはね、外国とメールのやりとりをするのには使ってますけど。
あとはアマゾンで本買ったりとか、安い電気製品を買うので使うだけで、オークションとかはやらないですね。

ライブで質問に答えるのと、メールの質問に答えるのとでは感触が違ったりするものですか?

多少ね。メールの場合は答えを工夫できるじゃないですか。時間的余裕があるから。
ライブのときは、その場で即興だから、あとで「しまった。ああ答えればよかった」っていうのがあるんだけど、今回は答えを推敲してるわけですよ。
翌日になって、やっぱりこう答えるほうがいいか、とかね。

詩もかなり推敲するっておっしゃってましたよね。

うん。だから、もう、ほとんど同じような感じですね。
まあ、詩よりはもうちょっとのんきにやってますけどね。
やっぱり、ウケたいっていうのもあるしね(笑)。

読んでいても、この質問で、どうしてこんな答えがっていう意外性というか、 広がりがあるんですよね。たとえば「生物はなぜ左右対称なんでしょう?」という質問に、どうしてあんな宇宙みたいな答えが返ってくるんだ!質問してみるもんだなあって。

そう? そんな感じしました?
自分ではなんか幾何学的な答えになっちゃったかなあってあの回答は忸怩たるものがあったんだけどね。

そういう抽象的なテーマじゃない、わりと具体的なお悩みを質問をしている場合でも、谷川さんの回答って「こうすれば直るよ」みたいなことは絶対に言わないんですよね。
たとえば「おじいちゃんおばあちゃんにやさしくできない」という悩みにもこうすればやさしくできるよ、とは言わない。
その「やさしくできない」っていう気持ちの中に、こんないいものが入ってるんだよ、ってことを話してくれる。
あるいは「恋はなぜ冷めてしまうんでしょう。わから~ん」という質問でも、その「わから~ん」というところから開ける世界があるよ、その気持ちを大事にしなさいと。

僕ね、よく人生相談みたいなの新聞とか週刊誌に載ってるじゃないですか。
結構、好きなんですよね。ごく短いやつ。あんまり長いのは面倒くさいんだけど、朝日新聞なんかときどき載ってるんですよね。
答えてるのはタレントさんとかなんだけど、僕、いつも感心して読んでるの。
うまいなあって。だからそれをお手本にしてるかも知れません。
答え方ってそれこそ無限にあるわけじゃないですか。
言ってきたことにまともに答えられるような、面白い質問って、案外少ないんですよ。
いかに面白く答えるかってことを、こっちは考えてるわけだから。
正しい答えとか立派な答えはぜんぜん考えてないんです。

じゃあ、谷川さんの中で答えるにあたって、決めてたことってありますか?

なんか、エライ人みたいに教え諭すのは嫌だっていうのはひとつありますよね。
いきなりそういうスタイルはやめたい。たぶんできないだろうしね。
それから、できるだけユーモアってものをそこに入れたいっていうのもありますね。

なるほど。ほんと直そうとしてないんですよね、どんな質問に対しても。
一貫して直そうとしてない。そこがいいなあって。

だってこの年になるとね、直るもんなんか何ひとつないって骨身にしみてるからさ。
直せなんて言えませんよ!

アハハハ。でもやっぱり谷川さんも何かを直そうと格闘したことってあるんですよね?
それこそ20代30代のときとか。

そりゃありますよ。それがもう全部、絶望的にできなかったから、僕もちゃんとわかったわけですよ。人間を直すなんてことは不可能であると。

谷川さんがそう悟ったのって何歳くらいのことなんですか?

そんなハッキリ言えませんね。徐々に、徐々にですよ。
僕はもう、ずいぶんあとになってからですね、そういう風になれたのは。
それこそ41くらいの頃はまだ丁々発止やってたと思いますよ。
その少しあとにうちの母親がぼけたわけですよ、認知症の老人を治そうなんていうのは本当に徒労だった。それも結構大事でしたね。

がんばってもどうにもならないってことを知るって、大事ですよね。

すごく大事ですね。

私も薄々は気がついてきたんですけど。

いやあ、十分です、まだ。

(ダ・ヴィンチの)読者は20代の半ばくらいの方が多いんですけど。

僕も20代は全然わからなかったね。その点では中原中也って人は二十代でもう気がついてたみたい。エッセイで書いてるんですよ。人生がどうにもならないもんだって思ったって。だから早熟な人はそういう風になってくるし、相当きつい経験すると、やっぱりそういう風になっちゃうだね、たぶんね。

そこにだんだん気が付いてくると、また別の開き方をしますよね。

うん。絶対そうだね。もちろん自分も楽になるし、それから他人に対する態度も変わるわけだし、人間観も変わってくるわけだから。

質問の答えの中にも「苦しみのグルメになったほうがいい」っていう言葉があって、とても心に残りました。質問者の人だけじゃなくって、この本を読んだ人にとっても、自分の中のマイナス部分との向き合い方が変わるような言葉がある。
そのマイナスをがんばるとか、直すとか、捨てるとか、そういう話はひと言もなくって、そのマイナスを持ってることで今度は違う世界が開けてくるよ、みたいな答えになってるのが、とてもいいと思いました。

そうですね。そういうのは、僕はやっぱり、たとえば河合隼雄先生とか、心理学の本からも学んでますね。自分の経験だけじゃなくて。

今もいろんな方に学んだって、お名前がいくつかあがりましたけど、この本でも質問の答えに、参考文献がついてたりしますよね。

ああ、あれはね、自分の本だったりするけどね。
僕は「世間知ラズ」って詩集を出してるくらいで、自分は世間知らずだって自覚があるんですよ。だから本当は自分はこんな人生相談みたいな質問には答えちゃいけない人だって、どっかで思ってるんだね、心の底で。
だから一生懸命ね、勉強して答えてるんです。人生知ってる人に学ぼうって感じで。
答えるスペースがあんまり長くないんで、答えと一緒に参考文献読んでもらうと、答えの意味がもうちょっとわかるんじゃないかって。
「参考文献」っていうと、なんか偉そうで、かっこいいじゃないですか。
ちょっと笑ってもらおうと思って(笑)。

たとえば宮沢賢治の『どんぐりとやまねこ』とかをあげてらして。

読んでみたらフィットしてると思うよ。誰が偉いかって山猫が裁判する話で一番めちゃめちゃで、一番だめなのが、一番いいみたいな話だから。

あとは、答えの中で「一般論で考えるのはやめなさい」ってことをおっしゃってるじゃないですか。

要するに悩んでる人っていうのは、社会の常識とか決まりごとにすごい縛られてる感じがするんですよ。みんな、自分のほんとの気持ちを、そういう流通している決まり文句でくくって質問してくる感じがするんだよね。
だから自分でもっと考えれば、違うことばが出てくるんじゃないかってことはときどき、質問を読んでいて感じるわけね。  そういうところを答えるっていうのはありますよね。
もしかすると自分もわりと世間の常識に従って生きてはいるけれども、本当はなんか自分の中の価値観っていうのは、そういうものからズレてるっていう自覚があるかもしれませんね。だから「世間がなんといおうと、これは本当なんだから」みたいな居直り方をしてるんだと思うんです。

だからかなあ。読んでて、ラクになるというか、ちょっと気持ちを自由にしてくれる気がしたんです。

そうなってると、すごく嬉しいけどね。

そうすると「世間」とか「世界」とそれまで自分が思っていたものの、イメージもすごく変わりますよね。

そうだね。

だからこの本って、それこそグーグルアースじゃないけど「詩人の目」みたいなもので、世界を観る、そうすると世界の見え方がちょっと変わるっていう感じがあります。

ああ。ちょっと鳥瞰的に観るっていう傾向は僕にはありますよね。
僕はね、人間っていうのは社会内存在じゃなくて、宇宙内存在だって、思春期の頃から思っていたんです。
〈コスミック〉と〈ソシアル〉ってことを考えてたんですよね。
相談してくる人はだいたい人間関係の中で悩んでいる人が多いから、自分を「社会内存在」だって思っているわけね。
そこでやってると解決つかないことっていっぱい出てくるんだけど、それと同時に自分は「宇宙内存在」なんだって、無限の宇宙の中のひとつの生命なんだって思うと、もうちょっと気持ちが広がったりなんかするし、社会内のがちがちの価値観から少し自由になれるような気がするんですよね。
基本的にそういう気持ちは自分の中にあるかもしれないですよね。

じゃあ、谷川さんが、もし誰かに質問するとしたら、誰にしてみたいですか。

どういう質問かによるんだけど……一番自分にとって大事な質問?

そうですね。

……やっぱりその相手は秘密ですね。

アハハハ。それって「僕のこと、スキ?」とか、そういう質問ってことですよね?

そりゃあね、一番大事な質問っていうのは、そういうことでしょ(笑)。

じゃあ、2番目でいいです。

僕、わりと本で答えを探す人なんですよね。
たとえばイトイさんは中沢新一の本が好きでしょう? 僕もすごく彼の考え方好きなんですよね。だから直接中沢さんのところ行って質問するなら、中沢さんの書いたもの読みましょうって感じだから。直接その人に1対1で質問したいって人はあんまりいないんですよ。
その人がもしいたら質問したいって人はいるんだけど、それっているかいないかわかんないんですよ。チベットとかネパールとかあっちのほうの山奥にさ、300歳くらいの老人がいるんだって。その人に会ったら質問したくなっちゃうよね。

なにを質問しますか?

「楽しい?」とかさ、あるじゃない。「どっか痛い?」とかさ。「ほんとはいくつ?」とか。
そんなことほんとは聞いちゃいけないんだってこと、わかってるんだけど、もしほんとに会ったら、なんか聞いちゃいそう。だけど、言葉しゃべってくれるかどうかわかんないよねえ。たぶんそういう人は言葉なんかしゃべんないんじゃないかなあ。

ああ。そうかも知れないですね。そういう人に会って、一体なにを聞くだろうと思ったら、だんだん、聞きたいことが、すーっと……。

そう。聞かなくても、その人を見ただけで満足しちゃいそうな感じだよね。
だけど質問するのがおそろしいとか、そういう感じは僕にはぜんぜんないよ。
どんなえらい人でも、質問するときは質問すればいいんだって思ってるからさ、そんなにもったいないとかなんとか、そういうのはおかしいんじゃないの。

そうか。そうですね。でもやっぱりやっぱり質問できるっていうこと自体が、自分にとっての何かになるような人っている気がして。
谷川さんもそういうおひとりじゃないのかなって。

30代のときの僕に会ったら絶対そう思わなかったと思うね。
「なに、この人。ぜんぜん人間のこと、わかってないじゃん」みたいに思ったんじゃなかなあ。よかった。今、会えて。
僕も少しは世間のことわかってきてる年齢だから(笑)。

「谷川さんの中にも鬼はいますか?」という質問も面白かったです。
あの回答も、じゃあ今だからこその回答なんでしょうか。

ああ。前はいたけど、今いない、みたいなのね。
まあ、僕の場合、わりと希薄な鬼だった気がするんだけどね。
哲学者の鶴見俊輔さんが「自分は極悪人だ」ってよく言うんですよ。
そうすると、僕、どうしてもコンプレックス感じちゃって。
どうしても自分を極悪人と思えなくってね。
悪人どまり、なんですよ。
なんで「極悪人」と思えるのかと思って。
つまり鶴見さんの言葉には「極悪人と思えなきゃダメだ」って感じがあるんです。
確かに基本的にね、自分は悪人だってところから出発しないと、ちゃんとしたことを見られないなってことはわかってるんだけどね。
極悪人になるのは大変ですよ(笑)。

確かに文学とか詩みたいなものって、コンプレックスが強かったりとか、自分を自分で責めるタイプの人が、その逆転の発露として出てくるみたいな、思い込みというか古くからの言い伝えみたいなものがありますけど、果たしてそれは本当なんだろうかと思うんですよね。詩って特にそういう印象が強いじゃないですか。

あるね。あるある。

でも、谷川さんって、そういうところには立たないじゃないですか。

うん。前に言ったかも知れないけど、西洋の批評家だったと思うんだけど、「充足から書き出す作家と、不充足から書き出す作家と二種類いる」って言うんですね。僕は、あきらかに充足から書き出すタイプの作家なのね。
それはもう、生まれ育ち、もしかしたらDNAと関係あるのかもしれないけど、だいたい「この世の中は完全で素晴らしい」っていうところから出発してるんですよね。
特に僕は一人っ子で、兄弟ケンカとかしたことないし、会社に行って、組織の中でいじめられたとかいう経験がないから。  なんか、すごく自分を肯定的にとらえられるっていうところがあってね。
自分が幸せであることが、一時期すごい後ろめたかったんです。
「しあわせな人間が書くものはつまんない」みたいに、言われることもあったしさ。
だけど、自分はほかの人と比べると、あきらかに充足から書き始めてるなあっていう区別はつけてましたね。

なるほど。でも「充足から出た」詩をこれだけ多くの人が大切に思ってるっていう、そのこと自体に励まされる感じがあります。なぜならば、みんな、誰だって本当は幸せになりたいはずなのに、不幸なほうが正しいみたいな方向からしか、ものを言ってもらえないとしたら、幸せになりづらいじゃん、という風に思っていたからなんですが。

それ、ありますよね、たしかにね。

ありますよね、不幸なほうがえらい、しあわせな人は鈍感だ、みたいな文脈でしか物事が語られないとしたら、人はしあわせになりづらくなるんじゃないか。

いまは、でもそういうとこ、なくなってきてるんじゃない?
いまは、もうちょっとお手軽な幸福が溢れちゃってるんじゃないの。
いまは、不幸がもてはやされてるかな。
お手軽に幸福ににげようとしすぎてる、っていえばいいのかなあ。
ダライ・ラマが言ったことで、これ、すごく嬉しかったんだけど、「人間の生きる目的は?」って聞かれて「幸せになることだ」って彼はすごくハッキリと、単純に言うんですよね。
それは僕、一番いい答えだと思うのね。
「魂を磨くため」だとかそういう言い方もまたあるわけだけれども。
人間っていうのは、幸せになるために生きれば一番いい、だけれども、じゃあその幸せっていうのは、何かっていうことになる。
いまってお金があることが幸せとかそういうことにもなっちゃってるから。
ほんとになんか、からだもこころも一体化して、ほんとに平和で幸せっていうのをみんな、求めなくなってるんじゃないか。方向がちょっと違ってるんじゃないかなあって。
この間、本で読んだんだけど、アボリジニの老人は、でっかい、オーストラリアの岩の上に座って、しょっちゅうこうやって青空みてるんだって。
それって、チベットの修行者とおんなじだっていうんですね。
そういう幸せの値打ちっていうのは、今、見失われてるなっていうのは思いますけどね。

う~ん……それは幸せだろうと思うけれども、その岩の上で瞑想してる人は幸せだろうけど、その人にも家族はいるわけで、それって抽象的な幸せじゃないだろうかとも思ってしまうんですが。

ああ。お釈迦様は子どものこと、どう思ってたんだろうってことだよね。
それは僕も会ったら聞いてみたいね。

谷川さんがご自身の詩は「充足から始まった」ものだっておっしゃったじゃないですか。
谷川さんが詩で描いてくれる、あの幸福感のほうが、よっぽど、わかるというか手で触れる感じがします。朝の空気の感じとか。空を見上げたときの感じとか。
あれこそが「幸せ」じゃないですか。

うん。でも腹立てる人はいると思いますよね。なんかね。

そんなの……心が狭いんです。

アハハハ。
宮沢賢治が「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」って書いてるんですね。それにすごく反発したわけ。世界全体が幸福になるなんて不可能だと。
個人の幸福から始めなきゃね、世界全体は幸福にならないんじゃないかって思ってたのね。
だけど、この頃ね、やっぱり世界全体が幸福にならないと、幸福になれないなって思いますね。あんまり世界が不幸だから。
もちろん自分は私生活、幸福になろうとがんばるわけだけれどもそういう自分の幸福を世界にどうやって広げられるのか。
考え出すと相当悲観的になってきますよね。
やっぱり文明ってすごく加速していて、マルクス主義とかいろんな価値がダメだっていう風になって、なんかもう、全部ダメになっちゃったじゃないですか。
だから全世界的に見えてなくて、地球温暖化を防ごうみたいなネガティヴな方向になっちゃってる。そういうのもあって、僕、落ち込んでるんですよね、たぶん。
「幸せが何か」って、ほんとに意識の問題でしょ、当人の。
当人が「ほんとに幸せだ」って心底思えればそれでいいわけですよね。
でも今、心底そう思ったときに、「じゃあお前、地球温暖化どう思ってるの」って言われたら「私、幸せだから、彼女も幸せになってほしいわ」で済むのか?
昔はさ、村に体の悪い人や貧乏な人がいれば、お互い助け合ってそれで済んでたんだけど今はどうも情報が全世界的に入ってきちゃうじゃないですか。
それに対して、自分はほとんど完全に無力なわけでしょ。
そういうこと考え出すと、ひとりで幸福になるのは難しいですよね。
どう考えても。

そういう時代に詩人ができることって何だと思いますか?

やっぱり、どんなに単純であろうが、なんだろうが、生きる喜びっていうことを感じさせるような言葉を書く。
あるいは、語る。声に出す。
それからやっぱり、人前に出たときは、元気でいたいとは思いますよね。なんか暗い顔してね、出たくはないなと思いますね。

近年の谷川さんの活動は、ライブにしろ朗読会にしろ、それからもちろん今回の本にしても、人の中にはいっていく感じがありますよね。

そういうのも自分からうって出るというより、やっぱり「受注生産」というか。
受注があるからやるって感じなんだけど。
でもやってみると、今これをやる意味があるなと思うし、励まされる感じもありますね。

たとえば朗読会とかそういう場で受ける質問は、もうちょっと辛らつだったりもするんですか?

いや、ほとんどないです。昔は違ったのかもしれないけど。
昔の学生なんかはおそらく相当ひどいことを質問したはずなんです。
今はほんと、みんな、礼儀正しくて優しいね。
みんな、ほめてればいいって感じで、やたらほめてくるわけです。
それが不満なの。

ああ、だから私が「質問できるだけで光栄です」みたいに言ったときも、なんとなくちょっと嫌そうだったんですね。

そう。よろしくないと。

なるほど。そういうのはせめて、300歳くらいになってからにしてくれと。
でも300歳になったら、答えなくってもため息だけでもう「谷川俊太郎のため息。300歳の!」って言われちゃいそうな感じですよ。

うちの息子がそれをよく言うんですよ。もうあとは舞台へ車椅子で出てきてね、「かっぱ~……」って最初の言葉を言うんだって。

ああ、『ことばあそびうた』の。かっぱ、かっぱらったの、かっぱ~……ですね(笑)。

そう。そうすると、観てる人は「おお~っ」っていうから、そのまんま、ひっこんでいい、ってさ(笑)。