【前編】運命に導かれた奇跡的なコラボレーションで生み出された最高の電子書籍図鑑

新刊著者インタビュー

更新日:2013/7/22

運命として決まっていたかのような翻訳依頼

――惑星イトカワの糸川英夫博士の甥である糸川洋さんが『マーカス・チャウンの太陽系』の翻訳をされるとは、何か運命を感じます。どういう経緯で翻訳依頼が来たのでしょう。

糸川:2000年にマーカス・チャウンの『僕らは星のかけら~原子をつくった魔法の炉を探して~』(単行本は無名舎より刊行、現在はSB文庫、945円)を僕が翻訳したのが、もともとのきっかけです。『僕らは星のかけら』は原子の起源と現代宇宙論への系譜を解き明かした本ですが、ある意味、物理学者たちの群像劇とも言える作品です。この翻訳の際、理論的誤謬などを指摘し、マーカスとのやりとりを重ねました。「ここまで読みとってくれる翻訳者は今までいなかった!」と彼はずいぶん驚いていました。そこで信頼を得られたのでしょう。英語版の『Solar System』の最初の翻訳が日本語版だったのですが、「ぜひイトカワヒロシに日本語訳を依頼してほしい」とマーカスが僕を推薦したんです。マーカスは村上春樹ファンで、翻訳を終えた後も、しばしば村上春樹の新作についてメールで感想を述べ合ったりもしていました。

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――著者との信頼あってこその仕事ですね。しかし、依頼の段階では、制作側のタッチプレスやチャウン氏は惑星イトカワと糸川さんの関係は知らなかったのですか?

糸川:そうなんです。直接の翻訳依頼はマーカスの代理人である、英国の中堅出版社フェーバー&フェーバーからで、連絡を受けてすぐに英語版の『Solar System』をダウンロードしました。すると、惑星イトカワの詳細な画像と記述もあるじゃないですか! 「イトカワは僕の伯父の名前からつけられたんです。ぜひ、やらせてください!」と返事をしたら、僕よりも英国サイドが感激していましたね。「これは非常に良い兆候だ。日本語版も必ず成功する」と喜んでいました。そう考えると、10年前のマーカスとの仕事は『太陽系』の翻訳に携わるための道筋だったように思えます。

 

チャウン氏は「まえがき」で糸川氏との運命的な再会について語っている

 

―――初めて英語版の『太陽系』を手にしたとき、どう感じましたか。

糸川:衝撃的な作品だと思いました。『太陽系』は昨年、世界中で話題になったiPadアプリ『元素図鑑』の発行元であるタッチプレスの制作。『元素図鑑』もいじってみましたが、『太陽系』はすべてにおいて劇的に進化していて、ぜひ自分の手で翻訳したいと思いました。そして、マーカスの原稿が実に素晴らしい。図鑑を超えた表現力なんです。

――図鑑を超えた表現力とは?

糸川:たとえばトップ画面の「太陽系」をタップして出てくる冒頭の文章です。
「大多数の人にとって地球の暮らしは楽ではありません。運よく楽な暮らしができても、目が回るほど忙しい。いきおい毎日の生活に追われがちになります。視線は下を向き、空を見上げる余裕などはありません。私たちは、途方もなく広大な空間に浮かんでいるちっぽけな岩のかたまりの上で暮らしていることを忘れています。しかし、薄い大気の層一枚隔てた向こう側には、別世界が広がっています」
自然科学の図鑑でもこういう表現をするんですよ、マーカスは。この文章を読むと、僕たちは一気に宇宙や太陽系に思いを馳せることができる。彼は文章だけで、僕たちの頭の中にイメージを喚起させるんです。これは彼の文章を翻訳するときに苦労させられるところですが、だからこそやりがいがありました。

 

マーカス氏は自然科学の分野においても文学的な表現を用いて、読者を作品の世界に引き込んでいく

 

美しい文章と画像で織りなされるそれぞれの惑星の物語

――それぞれの惑星の説明も一遍の物語を読んでいるかのようでした。これまでの図鑑とはまったく異なる読後感です。

糸川:マーカスは天文図鑑への思い入れが強く、「まったく新しい太陽系の図鑑をつくりたい」という高い志がありました。マーカスは電波天文学を学び、物理学を中心に科学史の造詣も深い。書かれているのはすべて最新の発見と理論に基づいていますが、物理学や現代宇宙論をかじった人でなくても面白く読める惑星の物語になっているんです。発見した科学者やその経緯も書かれていて、そこに人間ドラマがある。だから、もっと読み進めたくなるんです。
 完成までの高い志は制作のタッチプレスも同じでした。プロジェクトマネージャーのリチャード・ターンリッジは「ヒロシ、簡単にiPadアプリと呼ぶな。僕らはこれまでなかった<本>をつくっているんだ」と繰り返し言っていましたからね。至高を目指すチームワークがあってこそ、ここまで完成度の高い作品に仕上げられたんです。

 

糸川氏との縁も深い「イトカワ」。その小惑星に宇宙探査機「はやぶさ」がタッチダウンした様子がドラマティックに紹介されている