魔都・上海でアヘンを巡り人生が狂う者たち。異国の裏社会を描く500ページ超えの大作『上海灯蛾』

文芸・カルチャー

公開日:2023/3/28

上海灯蛾
上海灯蛾』(上田早夕里/双葉社)

「一月往ぬる二月逃げる三月去る」と言われるが、このあいだお正月だったと思ったら、もう3月。月日の早さに心がザワついてしまうときは、あえて「エンタメ大作」に没入して別の時間軸に生きてしまうのはどうだろう。上田早夕里さんの待望の新刊『上海灯蛾』(双葉社)は、そんなリアルな時間感覚を忘れるのにうってつけの一冊。舞台は日中戦争の前後の魔都・上海。「最」(ズイ)と呼ばれる極上の阿片をめぐり、男たちが斃れていく壮大なピカレスク小説だ。

 1934年上海、日本人の青年・吾郷次郎は小さな雑貨屋を営みながら、いつか金持ちに成り上がることを夢みていた。この地で成功するには裏社会を仕切る「青幇(チンパン)」と親交を深める必要があるが、日本人の次郎には、組織の末端に近づくことすら難しかった。そんなある日、彼のもとに謎めいた日本人女性・ユキヱが現れ、熱河省産の極上の阿片と芥子の種を持ち込み、「売れないか」と尋ねる。上海の阿片を仕切るのは当然、青幇。次郎は中国人の知り合いに阿片の売買ができる筋への紹介を頼み、とうとう青幇の末端に位置する男・楊直と対面することになる。まんまと楊直の弟分となり、最の栽培を頼まれた次郎は、加速度的に上海の裏社会に深く踏み入っていくがーー。

「青幇」とは清の時代、河川で暴れる水賊から積荷を守るために水運業社が結束してうまれた秘密結社であり、上海の裏社会を支配する存在。阿片、賭博、売春を主な資金源としていたが、その中でも阿片は彼らの最大の資金源だったという。物語はその青幇の手に「最」(ズイ)と呼ばれる極上の阿片と芥子の種が渡ることで始まるが、実は「最」は大陸に進駐する日本軍の管理下から密かに持ち出されたものだった。当時、巨大な富を生む阿片は日本軍にとっても軍資金を獲得するための重要な手段であり、「最」も本来なら門外不出。なぜそれが流出したのか? 大きな謎を残しながら、のちのち「最」をめぐって日本軍と青幇は激しい攻防を繰り広げることとなる。

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 時代の荒波の中で、主人公の次郎は日本人である自分を隠し、楊直から黄基龍(ホアン・ジーロン)という偽名を与えられ、裏社会で生きていく。国籍やアイデンティティのありかに逡巡しない彼が求めたのは、何ものにも囚われず、自分自身の「生」が輝くこと。その生き方はタフでしたたかで刹那的にも見える。だが、戦時下という不穏で窮屈な空気の中では、ひどく魅力的に映る。彼と共に異国の裏社会に潜入するスリルを堪能しながら、500ページ超えの大作を思わず一気読みしてしまうことだろう。

 なお著者の上田さんは、直木賞候補作にもなった歴史フィクション『破滅の王』(双葉文庫)でも日中戦争前後の上海を小説の舞台に選んでいる。前作では新種の細菌兵器をめぐる科学者たちと軍人の攻防・共闘という、いわば「表社会」の闇を描いたのに対し、本作で描かれるのは上海という街自体が持つ「裏社会」という闇そのもの。まさに上海の表と裏を描いた合わせ鏡のような二冊でもあり、共に味わえば、欲望と策略の渦巻く魔都「上海」がさらに妖しく薫り、ハマること間違いなしだ。

(文=荒井理恵)

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