沼に繋がれた鎖の男性器。『惡の華』押見修造が描く、10代の性別と性欲の苦悩が生々しい『おかえりアリス』

マンガ

公開日:2023/8/9

おかえりアリス
おかえりアリス』(押見修造/講談社)

 私たちは生まれてからしばらくして、自分の身体性が男性なのか、それとも女性なのかに気づく。そこまで考えてふと不思議に思う。そういった身体性を意識するまで、私は自分や周りにいる人たちをどのようにとらえていたのだろうか。

 私の場合は覚えていない。ただ自分の身体が女性であるとわかったとき、ピンクやワンピースをほしがる私を誰かが「女の子らしいね」と言い、性自認は女性ということになった。

 保育園でも小学校でも、女の子が好きになるのは男の子という暗黙の了解があったので、私も「異性が好きじゃないといけない」と思春期のどこかで思い込んで、男の子を好きになった。

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 ただ、今になって思う。私がもし自分の身体の性別を男性だと認識していたら、すべてがひっくり返っていたのではないだろうか。

 特に恋愛対象という意味では、自分の身体性が男性であれば女性になっていただろうと確信している。

 私は「可愛いな。仲良くなりたいな」と思う女の子がクラスメイトにいた。友達としてではなく、自分では言葉にできない思いで彼女を見ていた。

「実は男性も女性も好きなんじゃない? 今までそう自覚する機会がなかっただけで」

 そう言ったのは学生時代の友人だった。あれは恋愛感情だったのだろうか。違う気がする。結婚をした今になっても私は、小学校のクラスメイトへの気持ちに名前をつけることができないでいる。

おかえりアリス』(押見修造/講談社)は、自分が性別を認識する前の幼児期について考えを巡らせながら、性的に人を求めるとはどういうことなのか考えさせられる。

 主人公は洋平、どこにでもいるような高校生だ。幼なじみの結衣に恋心を抱き、彼女のことを想いながら自慰行為に耽っていたこともある。そんな洋平の日常は、もうひとりの幼なじみである慧との再会によって、かき乱されていく。

 慧の身体は男性だ。しかし見た目は女性に見える。周囲のクラスメイトたちは女の子になりたいのかと誤解するが、慧は「男を降りた。でも女性になったわけではない」と話す。慧は、押見修造の思春期の心を投影した人物のようにも思える。

 本作の巻末にはかならず作者の押見修造の思春期のころの想いが描写されている。自分の身体の性別を押見は受け止めきれなかった。一方で夢精をして、自らの性的な目覚めを感じた瞬間も描写される。

 身体性を受け止めきれないのが慧、慧に惹かれながらも、初恋の人である結衣の誘いに耐え切れず、性的な行為をしてしまう自分に苦しむのが洋平である。

 恐らく、慧と洋平、両方が押見の思春期の苦しみをもとに描写されている。

 洋平は幼いころから結衣が好きな「はず」だった。一方、結衣は中学生になるまで見た目が男性だった慧にずっと恋をしていた。しかし、慧がずっと離れずにいたのは洋平だった。

 中学校で転校した慧と再会した時、男性でも女性でもなくなっていた慧にショックを受けた結衣は、すばやく慧が洋平に好意を抱いていると感じ取る。

 彼女は慧に復讐するかのように、洋平と付き合うようになる。

 しかし洋平の感情は、どんどんと結衣から慧に傾く。

 結衣は勘が良いのだろう。彼女は時に服を脱いで洋平に迫り、性行為を強要する。身体が女性である結衣に迫られて、洋平は性的な衝動をおさえきれない。慧に惹かれる心と、結衣に誘惑されて反応してしまう身体を別物のように感じて悩むのだ。

 やがて洋平は自分の身体が男性であることを憎み、最新刊の6巻で衝撃的な行動をとる。

 6巻で注目してほしいのは、洋平の変化だけではない。

 それまで慧はクール、結衣は愛らしい表情をしていたのだが、このふたりが洋平によって心を乱されて、今まで見たことがない表情をする場面があるのだ。

 慧は、結衣によって洋平の身体が男性として反応するのを見せつけられて、泣きそうな表情になる。

 そして結衣は、洋平にセックスなんてしたくないと拒まれた時、それまでの可愛らしさをぬぐい捨てて、ぐしゃっと顔を歪める。

 洋平に拒まれた時、結衣は「私のことは誰も求めてくれない」と泣く。

 慧も洋平も、自分を見てくれない。敏感な彼女はそれを感じ取って傷付くのだ。

 外からこの3人の関係を見つめる人物もいる。慧の姿を絵画で描写することに価値を見出す、美術部の蓮だ。

 この四人が四人とも、みんな、思い通りにいかない現実の中で喘いでいる。

 中盤、洋平の男性器が鎖につながれている場面に彼の苦しみが表れている。

 向かう先には光に満ちた慧がいるが、足元では結衣が溺れている。

洋ちゃん

 ふたりは洋平の名前を呼ぶ。

 洋平の足元にあり、結衣が溺れている黒い泥のような世界は性欲を表しているのだろう。

 慧が光に満ちた存在なのは、洋平の目には慧が、男性としての性欲から解放された存在として映っているからなのではないだろうか。

 序盤は慧の魅力と「男をやめた」という言葉から、慧に注目していたが、今や洋平が名実ともに本作の主人公だ。

 自分の身体性と性自認、そして性欲と向き合い始める10代の苦しみがここにある。

 洋平がどのような行動をとったのかは本作を読んで知ってほしい。

 性に苦しめられる高校生たちの物語がどこにたどり着くのか、ますます先の読めない展開になった本作を、完結する前に、一冊ずつ読み進めてほしい。

文=若林理央

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