性被害、女性軽視、ルッキズム。あらゆる「わたし」が直面する生きづらさを露わにし、私小説の領域にも踏み込んだ西加奈子が織り上げる8つの物語『わたしに会いたい』

文芸・カルチャー

PR公開日:2023/12/4

わたしに会いたい
わたしに会いたい』(西加奈子/集英社)

 西加奈子さんの小説の魅力は、到底一言で言い表せるものではない。ただ、強いて1つ挙げるとするなら、「容赦のなさ」が抜きん出ている。本来であれば隠しておきたい本音、薄めて誤魔化したい現実。そういうものを、西さんは容赦なく原色のままに描ききる。新著『わたしに会いたい』(西加奈子氏/集英社)は、これまでの著者の作品の中でも、特に「容赦のなさ」が鋭く際立っている。

 本書は、全8章からなる短編小説集である。ドッペルゲンガーの存在意義を追求する少女、周囲の価値観に合わせて自分の体を粗末に扱う女性など、一風変わった人物が多数登場する。また、2023年4月に刊行された、著者初のノンフィクション『くもをさがす』で綴られた乳がんにまつわる治療の日々を彷彿とさせる物語「Crazy In Love」も収録されている。「わたし」の体、心、性、あらゆる角度から主人公の生きづらさに切り込む作品の数々は、痛みを伴うと同時に、そっと抱きしめられているような不思議な感覚に陥る。

 

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 個人的には、「ママと戦う」と題した作品が心に食い込んだ。主人公のモモは、ママから一心に愛情を注がれている。溺愛されている、と言い換えてもいい。ただ、モモが求める愛し方と、ママが注ぐそれとの間にはズレがあった。モモは「強くなりたい」と願っていたが、ママはモモに対して「可愛い」と言い続けた。「そういう言葉がほしいんじゃない」という本音を、モモは飲み込み続けた。

 モモが「強くなりたい」と思うに至った理由の1つは、性被害だった。友人とはじめてタンポンを試そうとしていた日のこと、モモたちは見知らぬ男性に卑猥な言葉を浴びせられた。生理用品は、大抵店の奥まった場所に置かれている。男性は、その配置を自覚した上で加害に及んだ。それは明確に「性的加害」であったが、当時中学生だった2人は、その事実を正しく認識できず、得体の知れぬ恐怖だけが残った。

“「14歳で、もう処女じゃないなんて、悪い子だね。」”

「タンポンを使う」=「処女ではない」という認識自体、呆れるほど馬鹿げている。それでも、言われた側の心には恐怖と「悪い子だね」というフレーズだけがしつこく縫い付けられた。

 同じ頃から、モモたちは電車で痴漢に遭うようになった。柔道部だったモモたちは、「触られたら大外刈り極めてやろうよ!」と言い合っていた。しかし、部員たちの誰もが、いざその場になると硬直した。

“そして誰も、加害者に大外刈りを極めることは出来なかった。動けなかった。”

 性犯罪に遭った際、咄嗟に動けず体や思考が固まってしまう現象は、「凍りつき」と呼ばれる。専門家の間では「被害者に起こり得る当然のショック反応」と認識されており、何ら不思議なことではない。当然ながら、被害者に落ち度はまったくない。しかし、モモはこう考えた。

“私たちはただ、もっと強くなりたかった。もっともっと、強くなりたかった。”

 自分たちが「弱くて」「悪い子」だからこんな目に遭うのだと、そう思い込んで性暴力を耐え忍ぶ日々を送る女性は、世間が想像しているよりもずっと多い。それは、性犯罪において被害者を責める風潮が後を絶たないせいだろう。そのため多くの人は、SNSなどの匿名の場所でしか本当のことが言えない。モモもまた、性被害に遭う苦痛をSNS上で吐露していた。そして、モモの母はそのアカウントの存在を知っていた。

 その後、モモと母親は友人親子と共に柔術教室に通いはじめる。そこで行われるスパーリングの場で、指導者のマリアさんはいつもこう叫んだ。

“「生き延びて!」”

 女性が“生き延びる”ための戦いは、大袈裟ではなく壮絶だ。本書に登場する主人公たちは、「わたし」のままでいることを許してくれない社会に対し、正面から戦いを挑む。「わたし」の声は、日頃心に溜め込みがちな誰かの声でもあり、悲鳴でもあり、涙でもある。無遠慮に晒される視線、許可なく触れてくる汚い指。本来なら堂々と「NO」を突きつけていいはずのものに、なぜか女性は沈黙を強いられる。だが、本書に登場する「わたし」たちは黙らない。そこがいい。

 本書の最終話で、主人公が大声で叫ぶ。

“「チェンジ!!」”

 変わるべきなのは、果たして「わたし」か「世界」か。著者の容赦ない問いに、怯んでいる暇はない。答えはもう、とうの昔にみんなが知っているのだから。

文=碧月はる

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