吉本の絵本作家オススメ イラン発の『ボクサー』。ボクシングにストイックに打ち込む男の人生が胸を打つ――【ひろたあきらの大人に刺さる絵本ガイド】

文芸・カルチャー

更新日:2024/1/10

ボクサー
ボクサー』(ハサン・ムーサヴィー/トップスタジオHR)

 絵本を読むと、大人になって忘れてしまっていた大切なことを、思い出せることがよくあります。それも、すごくシンプルで、子供の頃から知っているような当たり前なこと。そういえばこれって、すごく大切だったなぁと、まっすぐ心に伝えてくれる。毎日を忙しなく生きる大人にこそ、読んでほしい絵本があります。

 イランの絵本『ボクサー』(ハサン・ムーサヴィー/トップスタジオHR)も、忘れてしまっていた大切なことを思い出させてくれた一冊です。物語は一人のボクサーの人生を描いています。このボクサーは、とにかく拳で打って打って打ち続けます。子供の頃から、父の形見のグローブをはめて、朝も夜も、何年も拳を打ち続けます。草原も、雲も、木も。何もかも、ひたすら打ち続けるのです。

 このボクサーは、ボクサーの中でもかなりストイックなボクサーだと感じられます。ただ、私たちの知っているボクサーとは少し違います。普通のボクサーは試合に向け、相手に勝つためにトレーニングを重ねます。しかし、このボクサーは、そういう訳ではありません。ただ、打っているのです。まるで漫画「HUNTER×HUNTER」に出てくるネテロ会長の若い頃のように。ネテロ会長が拳で音を置き去りにしたのは有名な話ですが、このボクサーは、何年も拳を打ち続けた結果、拳で岩を打ち砕き、大波を起こし、山を砂埃に変えるほどのボクサーになったのです。

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 でもある日、そんなボクサーの動きが突然止まります。そして、こんなことを考えました。「どうして父さんは ボクシングを教えてくれたんだろう」ボクサーは初めて自分を振り返り、拳を打つ意味を考え始めました。ボクサーはなぜ拳を打つのか。この先ボクサーは何のために拳を打つのか。物語の終盤では、ボクサーの未来が描かれます。

 ボクサーが拳を打つ意味を忘れてしまっていたように「何のために今の仕事をしているのか」を忘れてしまっている大人は少なくないはずです。私もよく忘れてしまっている大人の一人です。最近は特に、絵本作家という仕事の厳しさに挫けそうになりながら、ただ目の前の締切に向け、作品を作ることに追われていました。まるで、ただ拳を打ち続けるボクサーのように。

 そんな時にたまたま絵本屋さんでお会いした、大先輩の絵本作家さんとお話しすることがありました。元々その方のファンだったので、私は絵本にサインをお願いしました。するとその方は快くサインを描いて下さったのです。しかもかなり手の込んだイラスト付きで。イラストを描き始めて、すぐにその方は私に向かってこう言いました。

「なかなか食えないでしょ?」。私は大先輩のその一言に少し泣きそうになりました。絵本作家というと聞こえがいいが、実際はとても厳しい世界。芸人をやっていた時ももちろん厳しい世界だと感じていました。売れる芸人は運と実力を兼ね備えたほんの一部だけ。才能があるのに辞めていった人も何人も見てきた。しかし、芸人の世界にも負けないほど、絵本の世界も続けていくのは大変だと感じていました。むしろ絵本の世界のほうが難しいのではないかと思うほどに。

 そして、その方は自分も食えるようになったのはここ数年で、45歳ぐらいまではバイトしてやっていたよと教えてくれました。でも、この世界を好きで選んだのだから、食べられなくて当たり前。バイトをすれば続けられる。それよりも子供たちに何を伝えたいかとか、何のために絵本を作るのかとか、そっちのほうが大切だよねと話してくれました。私はその言葉を聞いて、ぐうの音も出ませんでした。

 なかなか思うようにいかないのも、厳しい世界なのも当たり前なことなのです。それでも好きだからやっているんです。ボクサーにぶん殴られて目が覚めたみたいに、忘れていた大切なことを思い出させてもいました。これを読んでいるあなたにも、きっと大切なことがあると思います。あなたにとって大切なことはなんですか? たまには絵本でも読んで、大切なことを思い出して下さい。そしてたぶん、そのうちまた忘れてしまうのだと思います。

文=ひろたあきら

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