幼い頃に父親に暴力を振るわれPTSDを抱えたカメラマンと、親に捨てられた看護師。2人は過去をどうやって清算していくのか?

文芸・カルチャー

公開日:2021/8/29

朔が満ちる
『朔が満ちる』(窪美澄/朝日新聞出版)

 戦後、日本の殺人事件の認知件数は着実に減り続けており、2013年には初めて1000件を下回った。だがその一方で、家族内を主とした親族間での殺人件数は400件から500件台を推移しており、その割合が高まっている。この辺の事情は、石井光太氏による『近親殺人 そばにいたから』の書評をご覧いただきたいのだが、親族間の殺人には「家族内暴力」が絡んでいることが非常に多い。

 窪美澄氏の『朔が満ちる』(朝日新聞出版)の主人公・横沢史也もまた、酒に酔った父親に暴力を受けた過去を持つ。父親に殴打された場所にはアザがありありと残っているが、史也も史也の母親もその事実を隠し通した。幼い妹を守るためだったのか、母親は離婚もせず警察に通報することもしない。史也はそんな母親に失望していた。

 耐えかねた史也は13歳の時に斧で父を殺そうとするが、地元の駐在の助けもあり、犯罪は明るみに出ない。斧で傷ついた父は半身不随となり、その後長らく母の介護を受けることになる。だが、問題はそこから先だった。事件によるPTSDから、史也は内向的な性格になってしまい、高校でも大学でも友人を作らず、孤独な日々を送っていた。

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 やがて建築物専門のカメラマンを目指し、写真事務所でアシスタントをするようになった史也だが、事件のせいで一緒に働く大人への不信感がぬぐえない。また、史也と結婚するはずだった女性は、史也の過去を興信所で調べ、結婚は破談になってしまう。史也の悲痛な叫びは、以下のようなセリフに表れている。

記憶を消したい(中略)過去は過去のこと、水に流して、という言葉が心から嫌いだった。過去は今に繋がっているし、今は未来に繋がっている。記憶喪失にでもならない限り、父親や母親の記憶は僕の中から永遠に僕の中から消えてはいかない。

 史也が変わりだしたのは、病院で看護師の梓と出会ってからだ。産まれたばかりの頃、雪の日に乳児院の前に捨てられていたという梓は、施設での生活を経て、医師の養子として育てられた。過去に同じような辛さを味わったふたりは、自分にしか分からないと思っていた経験を共有する。そんなふたりが恋仲になり結婚に至るのは、自然な流れだった。ふたりが一緒に暮すうちに、冷え切っていた過去の記憶が次第に暖まり、溶けていくのだった。

 その後、梓は妊娠するのだが、彼女は捨てられた際のことを思い出し、「自分は本当に良い母親になれるのか?」と思い悩む。そんな梓に史也は、子供を育てていくことが、自分たちを苦しめた親たちへの復讐でもあると言う。そして、〈自分が親にされて嫌だったことをしなければそれで十分じゃないか〉と述べる。さらには史也の妹も結婚が決まり、ようやく彼らは過去の呪縛から解放されることとなる。

 史也が変わったことは、カメラマンの仕事にも如実に表れる。他人に興味を持てないから、建築物を撮るカメラマンを目指していた史也だが、あるきっかけにより梓を撮る。その写真で手応えを得た史也は、それ以降、人物写真を真っ向から撮るようになる。家族について極端にネガティヴなイメージを持っていた史也が、家族写真を撮るまでになるのだ。

 史也は、かつて暮らした家や親族、今の恋人などにカメラのレンズを向ける。陰惨で悪夢のようだった日々を写真に収めることで、過去を清算、総括しようとしているようだ。筆者は史也や梓に感情移入するあまり、「この先、彼らがちゃんと幸せになりますように」と願った。本書を読んでそんな風に願ったのは、決して筆者だけではあるまい。

文=土佐有明

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