たったの数時間でほとんどの持ち物を失った…。最低限の物だけを持ち、会社の倉庫に引っ越すことに/キッチン常夜灯②

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/5

キッチン常夜灯』(長月天音/KADOKAWA)第2回【全6回】

チェーン系レストラン「ファミリーグリル・シリウス」の浅草にある店舗で店長を務める南雲みもざは、ある冬の日、住んでいるマンションで火事に遭い、部屋が水浸しになる。住んでいるところに困っていると会社の倉庫の一室を借りられることになるが、勝手の違う生活に疲労はさらに溜まっていく。そんな時、みもざが訪れたのは路地裏で夜から朝にかけて営業するレストラン「キッチン常夜灯」だった。寡黙なシェフが作るのは疲れた心を癒してくれる特別な料理の数々で――。『キッチン常夜灯』は、美味しい料理とともに、明日への活力をくれる心温まる物語です。

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キッチン常夜灯
『キッチン常夜灯』(長月天音/KADOKAWA)

第一話 眠れぬ夜のジャガイモグラタン

「それは大変だったねぇ」

 墨田区東向島、下町らしさ満載の込み入った住宅街の細い路地にワゴン車を止めた金田さんは、心から気の毒そうに後部座席の私を振り返った。

「でも、荷物は本当にそれだけでいいの?」

 私は膝の上の紙袋を抱え直した。

「はい。全部水浸しですし、焦げ臭くて、とてもとても」

 火事の後、一睡もできずに朝を迎え、そのまま出勤した私は、夕方になって再びマンションに戻った。しかし、水浸しの部屋から持ち出せたものはわずかだった。預金通帳などの貴重品とマンションの賃貸契約書。いずれもずぶ濡れだが、ないと困る。

 それ以外は完全にダメだった。

 出火元の真下にあたる私の部屋は、どこもかしこも水浸しで、おまけに煤をたっぷり含んだ水は、鼻も目も痛むほど強烈に臭った。乾いたからといってとても使える状態ではない。私はたった数時間ですべての持ち物を失ったのだ。

 えらいことだと思いつつも、まだ夢を見ているように現実感がない。

「じゃあ、行こうか」

 金田さんがサイドブレーキを下ろし、アクセルを踏んだ。

 見慣れた古い町並みが遠ざかっていく。毎日眺めていたスカイツリーが夕日を浴びて煌めいていた。私はいつまでもそのスラリとした姿から目が離せなかった。

 私が向かっているのは文京区にあるという勤務先の寮だ。

 いや、正確にはかつては寮だったけれど、今ではすっかり備品置き場になっている倉庫である。金田さんが「倉庫、倉庫」と連呼するから私も「倉庫」と呼ぶ。今夜からその倉庫が私の住まいとなる。

 昨夜からの顚末はこうだ。

 帰る部屋を失った私は、大家さんの部屋に泊めてもらった。大家さんは一号室と二号室の二部屋をリフォームして広々と暮らしている。驚くべきことに、私の部屋は水浸しだというのに、隣は焦げ臭い以外は何の被害もなかった。

「いやぁ、本当に鉄筋コンクリートにしてよかったわ。おばあちゃんのおかげね」

 大家さんの一族は代々このあたりの地主らしく、いくつもの物件を所有している。

 おばあさんが亡くなる時の遺言が、集合住宅を建てるなら絶対に鉄筋コンクリートにしろというものだったらしい。

 大家さんは消防隊員に呼ばれてしばらく戻って来ず、その間私は、見慣れぬ部屋で膝を抱えて震えていた。神経は高ぶり、自分の体にも染みついた煙の臭いで頭がズキズキと痛んだ。帰宅してからわずか数時間の出来事が、とても現実とは思えなかった。

 だいぶ経ってから戻ってきた大家さんは、すっかり冷え切ったようで「ココアでも飲みましょうか」と、熱くて甘いココアを作ってくれた。この部屋は停電もしていなければ、ガスも使えるようだ。

 真上の部屋で火事が起こるなんて、理不尽にもほどがある。

 しかし、腹を立てる気力もないほど疲れていた。

「向井さん、寝タバコだったみたい。自分で通報したらしいわ。でもかなり煙を吸っちゃって、救急車で運ばれたって。何とかして自分で消し止めようとしたみたいね」

 大家さんはココアに息を吹きかけながら、仕入れたばかりの情報を披露した。私は自分の上の階にどんな人が住んでいるのかも知らなかった。

「初期消火は重要ですけど、ある程度で見切りをつけないと、自分が逃げられなくなっちゃうそうですよ。まずは逃げ道を確保しないと」

 会社の防災訓練で教わった知識を披露すると、大家さんは感心した顔で頷いた。

「そうみたいね。ドアが熱くなっちゃって、なかなか開けられなかったんじゃないかって消防士さんが。それにしても、こんなことは初めてだわ。これからどうしたらいいのかしら」

「私こそどうしよう……」

 言葉にしたとたん、目の前が暗くなった。

 何もかも失った。駅から近いこのマンションは人気があり、いつも満室だということも知っている。つまり、私が移れる部屋はない。

 実家は群馬で近いとは言えないし、彼氏はおろか転がり込めるほど親しい友人もいない。

 しばらく考えて、ようやく気がついた。

 ここは勤務先に相談するしかない。日頃、さんざんこき使われているんだから、こういう時くらい助けてもらわねば割に合わない。

 私たちは眠れぬまま夜を明かし、朝刊が届いたタイミングでタオルを借りて顔を洗った。新聞の配達員も、マンションの惨状に驚いただろう。

「仕事に行ってきます」

「今日くらい休めないの?」

 私の言葉に大家さんは仰天した。

 言われるまでもなく、仕事になど行きたくない。

 行ったところで何も手に付かないだろう。

 しかし私は「ファミリーグリル・シリウス浅草雷門通り店」の店長なのである。

 今日は他の社員が休みで、私が鍵を開けなければ誰も店には入れない。これがスタッフの九割をバイトが占める飲食店の現実である。

 昨夜、咄嗟にジーンズを穿き、リュックを背負って逃げたのは正解だった。リュックには財布と交通系ICカードが入れっぱなしだし、店に行けば制服がある。

 私は引き止める大家さんを振り切って、いつものようにマンションを出た。

 店に到着すると、すぐに本社の短縮番号を押した。

 この時間、電話を取るのは一番に出勤する総務部長だということもわかっている。

 総務部長の涌井さんが出たとたん、息をするのも忘れるほどの勢いで、昨夜の火事と住まいを失ったことを報告した。涌井さんには過去に恩を売っている。何かと親身になってくれることはわかっていた。

「しばし待て」と言われ、一度は電話を切ったものの、私がランチタイムの営業に励んでいる間にすべての根回しは終わっていた。

 涌井さんはすぐに倉庫の管理人と連絡を取り、使える部屋があるか確認するとともに、他の支店の社員にヘルプを要請し、私が早退できるよう手筈を整えてくれたのだ。こういう時、チェーン店で働いていてよかったと実感する。

 涌井さんはご丁寧に、倉庫の管理をしている設備部の金田さんを迎えによこしてくれた。

 マンションから持ち出す荷物があると考えたようだが、部屋を見るまでもなく、私にはすべてが水に浸かっていることがわかっていた。

 とはいえ、金田さんは気を利かせてゴム長靴まで持ってきてくれたので、恐る恐る、およそ半日ぶりの我が家に足を踏み入れた。

 惨状を目にしたとたん、不覚にも涙がこみ上げた。

 台所もクローゼットも、すっかり黒ずんだ水に浸っていた。

 いつかは着る機会もあるだろうと衝動買いしたワンピースのタグは外されぬまま水にふやけ、ボーナスをはたいて買った牛革のバッグはシワシワになっていた。いくら家財保険が下りたとしても、これらを手に入れた時の喜びは戻ってこない。

 水濡れだけでなく臭いも染みついていて、愛用のマグカップさえ、念入りに洗ったところで使う気にならないだろう。たとえ寝に帰るだけの部屋とはいえ、就職してからの私のすべてがここには詰まっていた。

 大家さんとはこれらの品の廃棄についての相談が必要になるはずだ。しかし、とりあえずは当面の生活の拠点を確保しなくてはならない。

 最低限必要な書類を探しだすと、ふと思い出して浴室のバスソルトのボトルをいくつか袋に突っ込んだ。ますますしばらくは眠れそうにない。

 

 金田さんの運転はびっくりするくらい丁寧だった。

「運転、お上手ですね」と言うと、「彼女を乗せているからね」などと笑った後、「あっ、セクハラかな」と慌てる様子がかわいらしい。

 設備部の金田さんは、度々グラスや皿などの備品を積んで支店間を行き来している。そのためにこういう運転が身についたらしい。

「私、金田さんが倉庫の管理人だなんて知りませんでした。しかも倉庫が昔、寮だったというのも初耳です」

 金田さんは、普段は本社にいる。店の設備に不具合があるたびに呼び出しているので、私にとって総務部の涌井さん同様、頼りになる存在だった。

「備品を管理しているのも設備部だからね。そもそも昔は僕が寮夫だったんだよ。カミさんと住み込みでさ。景気が良かった頃はウチの会社も社員がたくさんいて、地方から出て来る若い子も多かった。社員寮はいつも満室だったよ」

 私は「ファミリーグリル・シリウス」がすっかり勢いを失ってから入社した。

 経営母体である株式会社オオイヌは、現在の東京、神奈川だけの展開でなく、関西にまで支店を持っていたのだ。星の数ほどある飲食店にすっかり埋もれてしまった今では、想像するのも難しい。

 ハンドルを握りながら金田さんの昔語りは続く。ベテラン社員が自主退職などですっかり減った今、こういう話を聞く機会は貴重だから興味深い。

「懐かしいなぁ。今はその頃に比べて店舗数も社員もほとんど半分だよ。寮を維持できる状況じゃなくなって、閉鎖されたのは十五年くらい前かな。まぁ、自社物件で場所もいいし、閉店した店舗の備品は他店で使えるから保管しておこうってことで、そのまま倉庫として使っているんだ。僕も寮夫から設備部に所属が変わったけど、やっている仕事は前とあまり変わらないかな」

「たまに不要になったものを倉庫に送っていましたけど、正直に言うと、倉庫がどこにあるのか知りませんでした」

 送るといっても宅配便ではなく、食材を納品に来る自社工場のトラックに渡せば、倉庫へと運んでくれる。住所など書く必要もないのだ。

 車は隅田川を渡り、都心へと向かっている。

 本社の所在地は千代田区で、神保町の一号店のほか、新宿や池袋にも店舗があるのだから、かつての寮が都心にあるのも納得だった。

 金田さんは、寮が閉鎖となった直後に奥さんを亡くしたという。辛いことが重なって大変だったよと金田さんは笑ったが、その当時はとても笑えるような状況ではなかっただろう。今も倉庫の管理人としてかつての寮に住み続けているのは、会社もそのあたりの事情を汲んだからかもしれない。

 日頃から、何かと店の不具合があるたびに、フットワーク軽く浅草まで来てくれる金田さんには常々感謝をしていたが、寮夫だったと聞いて妙に腑に落ちるのだった。

「もうすぐだよ」

 運転席の声に顔を上げると、窓の外には大きな病院が見えた。連なる建物の間を走り抜け、道はいつしか入り組んだ路地へと入り込んでいる。

 時間にして三十分も走っていないが、すっかり知らない場所に来たようで急に心細くなった。

「それにしても災難だったよね。まぁ、倉庫だし、色々と不便はあると思うけど、気軽に何でも相談してよ。はい、到着」

 文京区本郷、ビルやマンションが立ち並ぶ路地だった。車は四階建ての細長いビルの前に止まっている。周りも似たような建物ばかりで、明日の夜は無事に帰りつけるのかとますます不安になった。

「この坂を下ると白山通り。すぐ目の前は後楽園の遊園地だよ。通勤には御茶ノ水駅より水道橋駅のほうが近いかな。さぁ、先に降りちゃって。そうしないと降りられなくなるよ」

 振り向いた金田さんに促されて、荷物を抱えてワゴンを降りた。

 ビルの一階は玄関の横が車庫になっているが、かなりの狭さである。

 金田さんが車をバックさせている間、私は路地に出てあたりを見回した。

 金田さんの言ったとおり、建物の間に東京ドームホテルが見える。友人の結婚式で一回訪れただけなのに、なぜかよく知った場所のように感じてしまうのは、これがすっかり街のランドマークとなっているせいだろうか。

 私がきょろきょろしている間に、金田さんは車幅ギリギリまでコンクリートの壁が迫るスペースに一発で駐車を決めていた。運転席の扉を細く開けてするりと抜け出してくる。

「金田さん、スリムですねぇ」

「この歳でそう言われてもなぁ」

 金田さんは脂っけのない顔をくしゃっとさせて笑った。

 その表情に私の緊張もするりとほどけた。

 かつては満室だったという寮も、今では壁がひび割れた古い倉庫だ。

 一階の奥が金田さんの住居、手前はかつて食堂として使っていた広い部屋だが、店から運び込まれたテーブルや椅子でいっぱいで、足を踏み入れる余地もない。すっかり埃をかぶり、いずれ使う日が来るかどうかも疑わしい有様だ。少なくとも私の店では使いたくない。

 二階から上は各階三部屋ずつ六畳の部屋があるらしいが、二階はすべて備品で埋まっていて、私が与えられたのは三階の手前の部屋だった。

「申し訳ないけど、洗面所やお風呂は一階なんだ。僕と共用になっちゃうけど」

 寮の頃からお風呂もトイレも共用だったが、入寮者が使っていた地下の広いお風呂やトイレ、一階の食堂に併設されたキッチンは水を止めているそうで、金田さんの居住区のものを使えとのことだった。

 金田さんが掃除をしてくれたという私の部屋はさっぱりと片づいていた。

 据え置きのベッドと棚以外の家具もなく、布団は金田さんから借りた客用布団である。午前中干してくれたのか、ふかふかと日向のにおいがした。

 部屋の確認だけすると、抱えていた紙袋からバスソルトを取り出して一階に降りた。

 今日のうちに最低限必要なものは買っておきたい。洗面用具に肌着などの衣類。とりあえずカードで当面の買い物は問題ないが、これから生活を立て直すとなると、改めて失ったものの大きさに愕然とする。

 今は目先のことだけ考えようと、不安はことごとく頭から追い出した。

「金田さん、バスソルト、お風呂場に置いてもいいですか。よかったら金田さんも使ってください。疲れが取れますよ」

 ホウキで玄関先を掃いていた金田さんは、嬉しいような恥ずかしいような顔で「いいの? ありがとう」と言った。

「出かけるの?」

「はい。何もないので、必要なものを買いに行ってきます」

「ああ、だったら白山通りに出て、後楽園駅のほうに行くといいよ。ねぇ、これを見てごらん」

 金田さんは私を手招いて、玄関先の小さな花壇を指さした。コンクリートの基礎部分がそのまま張り出したような小さな花壇からひょろっと細い幹が伸びて、青銀色の細かな葉をびっしりと付けている。

「これ……」

「そう。ギンヨウアカシア、ミモザの木だよ。細っこいけど春にはちゃんと花を付ける。南雲店長の名前、みもざちゃんって言うんだってね。今日、涌井さんから聞いて初めて知ったよ」

「普段は名前なんて呼びませんからね。本社の会議で店長って呼ぶと、みんなが振り向きます」

「本社の会議は、各店の店長しか出席しないもの」

 金田さんは楽しそうに笑い、「みもざちゃんかぁ。いい名前だねぇ」としみじみ言う。

「おばあちゃんが付けたらしいです。おばあちゃんの家にも大きなミモザの木があって、大好きだったみたいですよ」

「僕のカミさんみたいだ。カミさんも好きだったなぁ」

 金田さんは目を細めてミモザの枝を見つめていた。これからのことを思うと不安しかなかったが、ようやく少し楽しみを見出せそうな気がした。

<第3回に続く>

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