牙や爪よりも強い「長距離走」という名の武器。ホモ・エレクトスの生態/AIは敵か?⑨

暮らし

公開日:2024/1/3

『AIは敵か?』(Rootport)第9回

AIに仕事を奪われる! 漠然と抱いていた思いは、「ChatGPT」のデビューによって、より現実的な危機感を募らせた人も多いのではないでしょうか。たとえば、バージョンアップしたGPT-4のアドバイスを受ければ、プログラミング経験のないユーザーでも簡単なアプリを作れるほど高い精度を誇ります。では、⽣成AIが登場し、実際に人々の生活はどうなるのか。本連載『AIは敵か?』は、マンガ原作者でありながら、画像生成AIを使って描いた初のコミック『サイバーパンク桃太郎』(新潮社)を上梓したRootport(ルートポート)氏が、火や印刷技術といった文字通り人間の生活を変えた文明史をたどりながら、人とAIの展望と向き合い方を探ります。

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AIは敵か?

知性を持つ人類は肉体的に脆弱なのか

 17世紀の哲学者ブレーズ・パスカルは「⼈間は考える葦である」と述べました。ここには、⼈類の最⼤の武器は知性であり、⾁体は脆弱だという暗黙の了解が横たわっています。ヒトにはかぎ⽖も⽛もありません。イヌのような嗅覚も、ウサギのような聴覚もありません。⾝体能⼒では劣るものの、知性のおかげでどうにか⽣き延びることができた――。パスカルに同意する⼈は多いでしょう。

 知性が⼈類の武器であるという点は論を待ちません。

 しかし⾁体的に脆弱であるという⾒⽅は、誤りです。じつは⼈類には、コウモリの飛行脳⼒やイルカの遊泳能⼒に匹敵するほどの、哺乳類で随⼀の⾝体能⼒があるのです。

 それが、⻑距離⾛の能⼒です。

 たとえばアキレス腱を考えてみましょう。ヒトの成⼈は⻑さ10センチメートルを超える巨⼤なアキレス腱を持ちます。⼀⽅、ゴリラやチンパンジーのアキレス腱は⼀センチメートルにも満たず、アウストラロピテクスも⼤差なかったと考えられています(※1)。直⽴⼆⾜歩⾏をするだけなら、アキレス腱はさほど重要ではありません。アキレス腱が真価を発揮するのは⾛⾏時です。これがバネとして働くことで、⾛るときの⼒学的エネルギーの約35%を蓄えたり放出したりできるのです。

走行時に役立つ大臀筋と三半規管

 ⼈体で最⼤の筋⾁は⼤臀筋――すなわち、お尻の筋⾁です。これも歩⾏時にはさほど使われていません。この筋⾁が役⽴つのはやはり⾛⾏時で、地⾯を蹴り出すトルクを⽣み出すほか、着地時に固く引き締まることで、上体を安定させる機能を果たします。私たちが転倒せずに⾛れるのは⼤臀筋のおかげです。

 さらに三半規管も、私たちは他の霊⻑類より発達しています。たとえば公園でジョギングしているポニーテールの⼥性を思い浮かべてください。彼⼥の髪は、激しく上下左右に揺れているはずです。本来であれば、頭部全体に同じだけの揺れが加わっています。それでも彼⼥が⽬を回さないのは、三半規管が敏感に揺れを感知して、それを打ち消すように⾸や⽬の筋⾁が働いているからです。歩くだけなら、これほど⾼性能のジャイロセンサーは必要ありません。

ホモ・エレクトスとヒトの身体的特徴

 極めつけは、薄い体⽑と汗腺です。じつは⽪膚1平⽅センチメートルあたりの⽑根の密度は、ヒトとチンパンジーにさほど違いはありません。しかし、⽑の⼀本⼀本が細く柔らかいため、私たちは表⽪が露出しています。また、汗腺も発達しており、⼤量の汗をかくことで体温を下げることができます。ヒトは哺乳類の中では、極めて暑さに強い動物なのです。

 約190万年前に現れたホモ・エレクトスは、これらの⾝体的特徴をほぼすべて⾝につけていました。脳容量こそ約1000mlと、現代⼈の4分の3ほどしかありませんでしたが、四肢のプロポーションは現代⼈と同じになっていました。もしも彼らが現代まで⽣き延びていたとして、銀座や原宿で売っている⾐服を難なく着こなすことができたはずです。

オーバーヒートに強い驚異的な移動能力

 2020年のコロナ禍で外出制限がなされたとき、運動不⾜解消のために私はルームランナーを買いました。そして驚くべきことに、時速10〜12㎞で、20〜30分間も⾛り続けることができたのです!

 なぜ驚くべきかといえば、私は運動が苦⼿だからです。

 ⼩中学⽣の頃には、いつも体育の授業をサボる理由を探していました。現在の職業は作家であり、運動不⾜の⼩太りな中年男性です。これほど条件の悪い個体でも、ヒトは4〜6㎞程度であれば有酸素運動で⾛り抜くことができるのです。野⽣のチンパンジーの⼀⽇の移動距離が平均2〜3㎞に過ぎないことを考えると、これは驚異的な移動能⼒だといえます。

 先述の通り、哺乳類には体がオーバーヒートしやすいという⽋陥があります。汗をかくのが苦⼿な四つ⾜歩⾏の動物の場合、浅い息を繰り返すことで体内の熱を放出します。あなたが愛⽝家であれば、ハアハアと荒い息をして体を冷まそうとするイヌの姿を⾒たことがあるでしょう。ところが四つ⾜の動物では肺が⾜の動きの影響を受けるため、襲歩(ギャロップ)で⾛⾏している時にはこの呼吸法ができなくなり、体を冷やせなくなるのです。

 したがって四つ⾜の動物が狩りをする場合、あるいは敵から逃げる場合には、襲歩による⾼速⾛⾏と涼しい場所での休憩を繰り返す必要があります。体温を下げて、乳酸を始めとする疲労物質が筋⾁から洗い流されるのを待たなければなりません。

 もちろんヒトも、全⼒疾⾛時には無酸素運動になります。しかしその間も、汗をかいて体を冷やし続けることができます。さらに、有酸素運動から無酸素運動に切り替わる⾛⾏速度が、他の哺乳類に⽐べてかなり⾼めに設定されています。

 2004年のアテネオリンピック・⼥⼦マラソンは、気温30度を超える猛暑の中で⾏われました。乾燥した地中海性気候であるギリシャと単純な⽐較はできませんが、気温だけなら2021年の東京五輪のマラソン(会場は札幌)よりも⾼かったことになります。この過酷なレースを野⼝みずき選⼿は2時間26分20秒で駆け抜け、⾦メダルに輝きました。こんな芸当ができる哺乳類は、ヒト以外に存在しません。

ヒトはいかにして長距離走の能力を手に入れたか

 この並外れた⻑距離⾛の能⼒は「持久狩猟」をすることで発達したと考えられています。

 これは原始的な狩猟法の⼀つで、獲物が熱中症で倒れるまで、炎天下で何時間も追いかけ続けるという⼿法です。もちろん全⼒疾⾛するシマウマやレイヨウに、ヒトは追いつけません。しかしヒトは(イヌのような嗅覚がなくても)優れた視覚と知能でアニマル・トラッキングを⾏い、獲物の休憩場所を探し当てることができます。獲物に休む暇を与えず、暑さで⾝動きが取れなくなったところを、⽯やこん棒で撲殺して仕留めるわけです。この⽅法なら、鋭い⽛もかぎ⽖も必要ありません。

 BBCのYouTubeチャンネルでは、現代のアフリカ・サン族の持久狩猟の様⼦を撮影したドキュメンタリー番組を⾒ることができます(動画内では⼋時間に渡って獲物を追いかけ続けています)(※2)。おそらくホモ・エレクトスも、これに似たような⽅法で狩猟を⾏っていただろうと推測されています。アウストラロピテクスの時代には、私たちの祖先は草⾷中⼼の雑⾷性でした。しかしホモ・エレクトスの時代には、捕⾷者(プレデター)として進化していたのです。

AIは敵か?
コンソ遺跡のアシューリアン⽯器の変遷。右下から左上に、約175万年前、160万年前、125万年前、85万年前のハンドアックス(出典:東京⼤学総合研究博物館)

武器の進歩より、身体能力の進歩がすごい理由

 ホモ・エレクトスは握斧(ハンドアックス)と呼ばれる⽯器を製作していました。これは獲物の解体などに使われていたと推測されています。彼らの名誉(?)のために⾔えば、綺麗な握斧を作るのは現代⼈でも難しく、熟練が必要です。また現代⼈の4分の3とはいえ約1000mlもの脳を持っていたのですから、彼らは周囲の動物に⽐べて相当に賢かったことが想像できます。

 しかし残された⽯器を⾒ると、技術の進歩に数⼗万年という単位で時間がかかっていることが分かります。インテルのプロセッサが過去五⼗年でどれほど進歩したかを考えると、あまりにも技術⾰新が遅いのです。彼らに、現代⼈と同じような創意⼯夫の才能があったとは思えません。どちらかといえば「⼤⼈の作っている⽯器を⼦どもが真似して作っていただけ」ではないでしょうか。そして模倣の過程でコピーのエラーが起きて、偶然にも「以前よりもちょっと良い作り⽅」が⽣まれたら、それが集団内に広まっていったのではないでしょうか。

 ホモ・エレクトスの技術の進歩には、現代⼈の創意⼯夫とはまったく違うメカニズムが働いていたはずだと、私には思えます。

 ホモ・エレクトスは成功した動物でした。ジャワ原⼈や北京原⼈という名前を聞いたことがある読者は多いと思います。それらも現在では、ホモ・エレクトスに分類されています。つまり、彼らはアフリカを出て、はるか彼⽅の極東アジアにまで⽣息域を広げていたのです。また、約190万年前に現れた彼らは、ジャワ島ではほんの11万年前まで棲息していたようです(※3)。ホモ・サピエンスが現れたのがざっくり20万年ほど前ですから、彼らは私たちの9倍ほども⻑く⽣き延びていたことになります。

 彼らの繁栄に知能が必要なかったとは⾔いません。しかし、ホモ・エレクトスの成功の⼀番の要因は、⼈間らしい創意⼯夫の才能ではなく、哺乳類最強の⻑距離⾛の能⼒でした。

 毎晩、⾵呂場で⾃分のアキレス腱を⾒るたびに私はこう感じます。

 ⼈間は考える脚である、と。

※1 『人体600万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』(ダニエル・E・リーバーマン/早川書房 2015)上巻P137

※2 The Intense 8 Hour Hunt | Attenborough Life of Mammals | BBC Earth(https://youtu.be/826HMLoiE_o

※3 「【考古学】ホモ・エレクトスの最後の姿」(https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/pr-highlights/13170

<第10回に続く>

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Rootport(るーとぽーと)
マンガ原作者、作家、ブロガー。ブログ「デマこい!」を運営。主な著作に『会計が動かす世界の歴史』(KADOKAWA)、『女騎士、経理になる。』(幻冬舎コミックス)、『サイバーパンク桃太郎』(新潮社)、『ドランク・インベーダー』『ぜんぶシンカちゃんのせい』(ともに講談社)など。2023年、TIME誌「世界で最も影響力のある100人 AI業界編」に選出される。
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